Come on! 情熱や美談なんて ロクでもないとアナタは言う

・元々、クイズの会合に行く回数も少なく、遠征も行わない、テレビのクイズもそんなに熱心に見ない、そんなちょっぴりクイズ好きな私にとって、昨年1年間はそれほど大きなクイズ上の変化はなかった。新作問題の発表が少なかったのは、現在「ささきしげきの一人ユリイカ」(by秋元さん)のことでクイズ的な時間を使っているから。

 

・一方「昭和お笑い史の人」としては、続く訃報に心を痛め、古書収集もままならず、無観客番組は増え、劇場にも一度も行けず、いいことが全然なかった。強いて言えば『明石家さんまヒストリー』刊行開始がビッグニュース。笑福亭松之助師匠との交流も感動的だが、内弟子修行中に上京したエピソードもまた感動的である。感動的と言えば、小松政夫師は生前「植木等という師匠はどれだけ人間的に素晴らしいか」を語ることを使命としていたフシがあるが、その小松の親分さんが亡くなって、「小松政夫という喜劇人がどれだけ人格者か」というエピソードが続々登場したことは、たいへん喜ばしいことだったと思う。

 

・もっとも、お笑い芸人の感動エピソードがネットニュースで消費される状況を喜んでいるわけではない。ネットニュースと言えば、「これは漫才かどうか」という論争に、私もついうっかり参加してしまったが、「あんなの漫才じゃない」と行っていた匿名子達は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。藤本義一的な人が「あんなのは漫才じゃない。だいたい漫才というのは云々」とか言って論戦が起きれば面白いのに。往々にして「あんなの〇〇じゃない」などという吐き捨てたような口ぶりは、よほど粗雑な思考に自らを慣らしていないと出てこない。そういえば「あんなのクイズじゃない」って言ってた人達は何処へ行ったのでしょうかね。ああいう「全否定の言辞」、(私が言われたわけではないが)言われた人は一生覚えているものですよね。

 

・ということで、今年の目標は「すばらしい芸人を亡くなる前に褒めちぎる」。クイズ的には「一人ユリイカ」を完成させた後、コロナ後のクイズブームで活躍するためにクイズの勉強をしまくる・・・わけがない。まあ、諸事情で最近「クイズグランプリ」全5巻を流し読みしているけど、覚える気が無いので頭には入ってこない。なので、目標としては「田中さんの本を全部ちゃんと読む」くらいにしておきたい。言い忘れておりましたが『QuizistA』07・08は冊子版をちゃんと手に入れております。ファンとして当然でしょう。

少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。

・クイズではなく、お笑いのことを少々。

 

マヂカルラブリー優勝。「これは漫才かどうか」という議論が起こっているようだが、そういう議論はテツandトモとかプラン9で終わっていると思っていました。

 

・「正統派かどうか」という議論もあるようだ。「マヂカルラブリーは正統派ではない」と結論づけたところで何の意味もないと思うが、ひとつだけ言っておく。では「霜降り明星」はあなたの言う「正統派」でしたか? 

 

・ここでいう「正統派」とは、会話のような掛け合いを主としたものを言うのだろうが、会話が成立していないスタイルの漫才もしっかりと確立されている。ツッコミを無視してただひたすらボケ続けるのに対し、合いの手のようにツッコミを入れていく漫才は、M-1ならチュートリアル霜降り明星が優勝している。フットボールアワーのSMタクシーもそれに近い。最近だと、ウーマンラッシュアワーもそうだ。

 

・余計なことを付け加えると、チュートリアルの漫才を優勝する前年と優勝した年で比べると、明らかに前年の方が会話が成立している。福田さんの言葉が多いのだ。彼らは会話を成立させない方向に改良する戦略をとったことで、優勝をものにしたのである。こういうスタイルの漫才が生まれてくるのは、漫才の進化としか言いようがない。

 

・時を戻そう。「うなずきトリオ」という言葉があるが、ツービートもB&B紳助竜介も、基本的には会話というスタイルを崩していない。それまでの時代の漫才の構造を崩さないまま、ボケの言葉を高速にして増やし笑いを細かく刻むという、当時の最先端の漫才(もっと言えば、M-1でも勝ちパターンといえる漫才)を同時的に生みだした。このスタイルは非常に応用しやすい万能パターンなのだが、当時の漫才師で追随する人はほとんどいなかった。現在ではこういう漫才を「正統派」と考えている人も多いだろうが、当時は「これはオーソドックスな漫才ではない」と評価されていたのである。

 

・翻ってマヂカルラブリーも、1人がボケ続けるのに対して言葉でツッコむ、という構造は何ら変わっていない。ただ、ボケが一切喋らず動きのみである、という点がやや斬新なのだ。霜降り明星をさらに進めた形である。従来の漫才のスタイルを少し変えることで、漫才を進化させる動きが、M-1によって一気に加速され、それは今も続いている。今年もまた漫才は進化したんだなあ、と感慨を持って迎えたい。

 

・私は以前からおいでやす小田さんを応援している人間なので、今回の結果は非常に満足。惜しくも2位、というのが、らしくて良いよね。

出えへんかったらあかんやん!(あるボケに対するツッコミ)

・最近地下に籠もってクイズを論じる文章をものしており、書けば書くほど調べることが出てくる。これまでクイズというものが、いかに「ちゃんと論じられてこなかったか」がよく分かった。

 

・多少個人的な雑感を。つーか、ブログってそういうもんなので、暇で暇でしょうがない人だけ読んでください。

 

・数日前、クイズの女神云々という話があったが、別に世間ではクイズの女神に好かれそうな、感じの良い人ばかりが勝っているわけではないので、あまり気に病まない方が良いのではないでしょうか。周りに高校生のころからテレビで名を上げたり、高校生クイズで勝ち進んだり、たかがお笑いが好きなだけで100万円かっさらったりした人がいるから、そう思うのでしょう。ちなみに、私はクイズを頑張ったことは一度もない。

 

・趣味で頑張るのは間違っている、というつもりはない。私は家庭菜園の農作業を、結構本気でやっている(ちなみに私は「食い物を作る人が一番偉い」という価値観で生きている)。作物が旨く実らないと、本気で自分に対して腹を立てている。クイズ関係者の方は、私のそういう所、あまり見たことないでしょう。私も農作業をするまでは、自分のそういう感情に気付かなかった。趣味には、そのように自分を発見する、という面が確かにある。

 

・一方、もう一つの趣味であるクイズは、勉強しなくてもそこそこ答えられたから、まあそれでいいかな、という向上心の無い「ちょっとした遊び」でしかない。多分、こういう価値観は「史上最強」を見なかったから養われてしまったのかも知れない。そこそこ答えられた、というのは、知識量が豊富だ、というのではなく、当時のクイズでよく出るネタの傾向が、私の知的興味の傾向にわりと重なっていた、というだけのことである。

 

・私は現在、クイズのメインストリームというのがどういうふうに変遷を遂げてきたのかを論じようとしている。その中に自分を位置づけようとしても、見事に「はまらない」のである。どうも、私はクイズのメインストリームというやつに、全くかすりもしないクイズ人生を送ってきた、ということだ。大瀧詠一「日本ポップス伝」は、最後にはっぴいえんど「風をあつめて」を配置し、明治100年の日本のポップスに自らを位置づけた(と同時に松本隆細野晴臣をも位置づけた)。そういうのカッコいいと思っていたが、私には全く無理。であるからして、極力ちゃんと論じる。だから、私の名前は歴史の中に全く出てこない。出てこないから、論じて良いのではないか、と勝手に決めた。今年中にできるのだろうか?

 

こんなのを見つけた。まあ、あんな寒いテントの中で3日連続クイズなんて、ほんとにアホですね。にしても、企画書の歴史的仮名遣いがひどい(わざとだけど)。何度読んでも「くひずに煩はされぬやうな、ものの謂へぬ畜生」は、我ながら名フレーズだ。うん、アホですね。「別にこれによってみなさんのクイズの実力を量るなどという下らない意図はありません」。言うねえ。

 

・全くどうでもいい話。このブログでは「おいでやす小田」さんを応援していますが、来年のR-1は彼で決まりでしょう。

固より、まだ世に行われておらぬ。

・現今のクイズの状況について、時代状況などと絡めながら分析をする論を書いている準備中に、昨日のような余計な書き込みをすると、どうしても言葉足らずになる。挙句、補足の書き込みが必要になる。ということで、非常に後悔している。

 

・今、構想中のことを少しだけ書く。構想中なので、読んでも分からないかも知れないが、とりあえず書いておく。あまり詳しく書くと、もう書く気が起きなくなりそうなので、ほんとにちょっぴり。

 

・私の今のところの分析では、「勝つことを目的として努力をしている」というのは既に「今風」ではない。「努力をすることが目的となっている状況」こそが、「今風」なのである。だから、『山月記』のように(私はあまり好きな小説ではないが)「詩家としての名声を得るため」という目的がはっきりしている努力は「今風」ではない。勤勉に努力することが自己目的化しているのが、主に現在の若い人達に起こっている状況ではないか、、、と。だって、本当に今の若い人達(の一部)って、私には考えられないくらい勤勉だもの。高校生と普段接しているから、なおさらそう思う。

 


・付け加える。普段の文章の書きぶりが書きぶりだけに、例えば「自らの努力を無にするから腹が立つ」人を、私が冷笑的に、皮肉な目線で見ていると思われているのだろうと推察する。ただ私としては、分析を進めるうちに、時代の必然としか思えないクイズ的な変化が起きているような気がしてきている。そんな状況を、批判的にでも冷笑的にでもなく、冷静に客観的に記述していきたいと考えている。


・だからといって、私がクイズに接するスタンスは全く変わりません。

 

・今回の話と全く関係ないが、一応付け加えておく。『山月記』は、李徴が「名声を得るため」という、詩人としてはあまりふさわしくない方向性の努力をしてしまったがために、単なる「上手な詩人」で終わってしまい、人々を感動させられなかった話として読むこともできる。詩人は本来、自らの生の意味を問い直したり、詩を詠まなければ自らが存立し続けることができなかったり、そういう「どうしても詩作せずにいられない」理由を持っているものである。李徴にはそれがなかった。だから心を揺さぶらなかったのである。私は、そういう話だと思っている。いろいろな読み方はあるだろうけどね。

 

・とかって余計なことを書くからダメなのだ。

アラほんとに現代的だわネ

・今日は珍しく短く。何か書かなければいけないような気がしてしまったので。

 

・すべての競技クイズがそうだというわけではないが、少なくとも一部の求道的な人々は、AIに近づくための努力をしているようである。膨大な問題を長時間にわたりインプットしまくり、いざ問題に対峙した際には高速アウトプットを行う。そのための訓練を日々繰り返す。問題分析も完璧に行った上で、である。

 

・ところが、研究が進んだことにより、一部「自らの研究成果に合わないクイズ問題は、悪問である」と批判する人が出てきたりする。研究成果に合わないクイズ問題の存在が、自らの努力を無にするから腹が立つのであろう。こういう腹の立て方って、非常に今風だと思う。クイズにひたむき、なのかもしれませんね、私なんかより。こういう腹の立て方をする人は、ウルトラクイズには出ない方が良いでしょう。

あそびならまだましよ 救われるから

・最近クイズから離れているが、クイズについてはそこそこ考えている。もっともクイズ研究者として身銭を切ることを身上とする私でも、8時間もの議論を聞くのは相当しんどいので、ここに記す感想はない。本になれば買うかも知れないけど。

 

・「クイズ王は本当にいなくなるのか」。少なくとも、いなくなったクイズ王はいますね。

 

・私は当然「クイズは所詮遊び」派であり、クイズは、自らの人生のごくごくほんの一部分にしか関わらないものだと思っている。だから勝っても負けても何処かで「たかがクイズじゃないか」とタカをくくっている自分がいる。「99人の壁」のときは交通費自前だから、取り返すためにマジにやったが、クイズってマジにやると全然楽しくない、ということを途中から実感した(あくまで勉強が楽しくないのであって、センターにいるときは楽しくて仕方なかった)。

 

・私は私でクイズについて考えるところあり、今までのような断片的な記述ではなく、ある程度まとまった形で発表できれば、と思っている。いつになるか分からんけど。とりあえず、今私が考えている方向性でクイズを捉え直してみると、色々な現象について読み解けるのではないか、と直感で感じている。例えば、何で高校生クイズは高校競技クイズ王決定戦でなければならないと主張されるのか、とか。

 

 

組合員をおだてた演壇で社員に訓示する

茂木健一郎氏の言説について、そもそも私は一向に要領を得たことがないので知らんぷりしていたが、あの温厚な上野先輩(兄)がここまでお怒りとは! 私も黙っているわけにはいかない(秋元さんが怒るのは普通なので)と思ったが、全然書くことが浮かばない。何が言いたいのか、よく分からないからである。要は「日本は民度が低いから、私には日本のテレビは合わない。イギリスの良質なコメディでしか楽しめないのさ」ということか。であれば、「ああそうですか」としか言いようがない。だって本人、論争する気ないでしょ。論争にならないような言説に終始しているわけだから。放っておくのが一番コタえるはずなので、無視すれば良いんじゃないかな。

 

・何度も書いているが、私も東大をことさら持ち上げるようなテレビ番組は、あまり好きではない。「東大にも色んな人がいる」的な方向ならありかな。そんな私の目線からすると、一番東大を特別視しているのは誰だと思うか、こりゃもう言わんでも分かるわね(「ようかん夫妻」より)。

 

・一応付け加えておくと、電波芸者であるとないとに関わらず、昔言っていた言葉と今言っている言葉の内容が違うことに対して、私はあまり気にならない。私はブレないことにそれほど価値を置かない。変化するのは当然だし別に良いと思う。ただ、昔考えていたことを無かったことにはしないほうが良いとも思う。

 

・パクリ問題に関しては、謎解きでご飯を食べている人が、自分たちの謎解きをパクられたと主張すること自体は正しい。それ以上でも以下でもない。「〇〇くん大好き」とか「〇〇王が無くなったら困る」とか、そういう感情は理解できなくもないが、問題作成にパクリが増える→どの番組でも似たような番組が出題される→クイズの粗製濫造に拍車がかかり→飽きられて→ほとんどの番組が倒れる・・・という過去幾たびも繰り返されてきた道をたどったとしたら、はたして、困るのは誰なのでしょう。その〇〇くんや〇〇王が好きな、あなたではないですか(右京さん風に)。

 

・余談ですが、私の予想は「田中健一の未来に残したい至高のクイズⅠ」の前振りだけで答えられた問題は色無し、前振りだけでは分からず最後まで見たら答えられた問題が灰色、思い出せなかったのが黄色、というもの。田中さんの問題は前振りを置くのがデフォルトなので、こういう記録はとりやすいかな、と思ったもので。