あなたは もう たくとうかしら(嘉門達夫替え歌シリーズその1)

・相変わらずクイズ史について考えたりしているのだが、当今発売された『クイズ思考の解体』でもクイズ史を述べているということなので、内容があまり重なっていないことを祈っている。まあ、あんま重ならないでしょ。

・注意深い人であればお分かりのように、私はこの書を「毛沢東語録」に喩えたことはないので悪しからず(今日はこれが言いたかった)。

想い出はいつも揺れるメランコリー それぞれのページに それぞれの色を

・「アタック25」最終回視聴。超難問の予選30問、見たかったなあ。

 

・「アタック構文」などと揶揄する向きもあるようだ。「アタック構文」と名付けて呼べばレッテル貼りして揶揄したことになると考えるのがいかにも安易だと思うのだが、それはまあ置いておこう。「アタック25」は昔から(特に30周年の時)あんな感じだったのだから、それがイヤなら出なきゃいいし、見なきゃいい。

 

・確かにあのルール(2問不正解失格)であの問題文の連発は、解答者にとって相当厳しい。しかし、「史上最強のチャンピオン」を決定するんだから、厳しい問題でいいのだ。厳しい問題で勝つから、チャンピオンと言えるのだ。クイズの手練れが例会とかみんはやとかのように、お互いに気持ちいい問題を出し合って正解し合うような姿なんか見たいか? テレビ番組は、あくまでもクイズプレーヤーが苦しむ姿を見るものなのだ。それが伝統なのだ。それが「クイズの原点が、そこにある」ということだ。北川宣浩さんの「『プロ向け』の問題構成」という指摘が、一番しっくりきた。

 

・なお、アタック構文とやらの研究は既に行なっているので、そのときなにがしかの分析を提示する。例えばこんな問題が何処かで出題されたでしょう。「主人公ホールデン・コールフィールドの青春の悩みを鮮やかに描いた名作小説『ライ麦畑でつかまえて』の作者といえば誰でしょう?」。これはアタック25の問題ではないが、こういうのが今回も多かったわけだ。これが昭和からのクイズ問題の伝統なのです。

 

・もちろん、現代の目線から見れば、早押しに適さない文体だというのも、まあ頷けるっちゃあ頷ける。みんな安心して押せるポイントを得たいだろうから。そのために勉強してるんでしょうから。でも、「クイズは対応力」だもんね。特にテレビの場合は。

 

・アタック25史上最後の読み上げ問題の答えは「エピローグ」。しゃれている。第13回ウルトラの「ザッツオール」や「たほいや」の「おてちん」を思い出す。なお、アタック25史上最初の読み上げ問題の答えは「花祭り」だと聞いたことがある(昭和50年4月6日放送)。フィルムクイズの最終回は「始皇帝」、第1回放送では・・・吉田義男(この年タイガースの監督に就任)だと聞いたことがある。もうクイズのネタにならないと思いますが。

私は震える心押さえて 想い出話くり返す

・「アタック25」終了・・・なのだが、まだ最終回を見ていない(現在15:18)。後でビデオで見る予定。皆さん、「アタック25」への思いが溢れているようですが、ネタバレになりそうなSNSはすべてシャットアウトしているので、そういうのも追い追い見ようかなと。

 

・私は、テレビ番組はいつか必ず終わるものだと思っているし、特にクイズ番組の終了はあっけなく来るものだと考えているので、今回の終了に対する感慨は、特にない。ただ、クイズプレーヤーの人たちにとって、「アタック25」という番組が相当特別な意味を持っていたことは、理解できた。他人事みたいに聞こえるかもしれないが、これだけ長い間楽しませてくれたら、もう十分です。このルールでこれからも勝手に遊び続けていくつもりです。

 

・視聴者参加番組が無くなって行った理由を分析していくとき、どうしても「では『アタック25』は何故残っていたのか」という疑問に行き着く。これについての私の答えは3つで、まずは「スタッフやテレビ局が頑張ったからでしょう」、もう一つは「時間帯が良かった」。もう一つは・・・また今度書く。

 

・私が最初に出場した1995年時点で、もうこの番組は終わるかもしれないという噂があった。視聴率が良くないから、というのがその理由である。関西では良いのだが、関東の数字が悪かったらしい。それからも26年続いたのだから、スタッフやテレビ局が頑張った、としか言いようがない。これだけ上質の問題を出題し続けてきた、というだけでも頭が下がる。毎年読み上げ問題は1200問位出題されているようである。全部の問題を集めた問題集とか出してくれないかな。5万円までなら全然買うけどなー。

 

・「アタック25」終了によって、クイズ界に何が起こるのか。現在、クイズマニアのモチベーションはクイズ番組出場ではないので、「クイズ界」にはあまり変化が起きないのではないでしょうか。第二次クイズブーム後とか「史上最強」終了後とは、状況が違うように思う。

 

・というような感じで、最近クイズ史研究に没頭している。クイズに関する大著(値段高すぎ)が販売されるという噂もあり、内容パクリと思われるとシャクなので何とか早めに書き上げないと、と焦っている。

正気の沙汰でないと(所ジョージ楽曲集その1)

・「99人の壁」視聴。現在、お笑い芸人として大成している人は、間違いなく「お笑いオタク」である。笑わせるテクニックだけでなく、お笑いというジャンルそのものに関する知識も豊富でなければならなくなっている。

 

・だから、そういう人99人を相手に早押しで勝ち越せるかも、と考えるのは、もはや正気の沙汰でない。いや、3本勝負で2本先取だったら、何回かに1回はいけるかもしれない。チャレンジャーが分からない問題が出る可能性は極めて低いから、3問ともやや勝負を賭けて早めに押してしまえば良い。でも、4本先取はいくらなんでもきつい。私は一般人相手でホント良かったなあ。

 

・まあ、チャレンジャーがファイナルステージにさえ進出してくれれば、そこでどんだけ負けたとしても番組としては十分盛り上がるわけで、そういう意味ではよくできたフォーマットだと思う。

忘れます 忘れます あんたが好きだったって こともね

このツイート、「愛すべき阿呆共」は99人じゃなくて100人では? それはともかく、「99人の壁」が愛すべき阿呆共99人を呼ばなくなったのは、コロナより前の話である。2019年最後の放送(11月9日)から小学生軍団が登場している。この辺、はっきりさせておく必要があると思ったので、特に記述しておく。

 

・さて、「レギュラーの視聴者参加クイズ番組」が消滅したことを、クイズ史的にどう評価すれば良いのか。これはなかなか難しい。「視聴者参加クイズ番組」と「タレント出演型クイズ番組」を分ける必然性は、そもそもあるのだろうか。どっちも同じクイズ番組じゃねえか、と判断する人がほとんどいないのは何故なのだろう?

 

・クイズというジャンルは、テレビ制作的に言うとあくまで「容器」であって、そこに何を盛り付けるのかが大事なのだ。で、最近(ここ2年近く)の「99人の壁」は、数字が取れそうなジャンルや出場者だけを盛り付けていたからレギュラーとしての寿命が延びた。そのことが分かっているから、たとえ不定期特番として復活したとしても、番組当初のような「雑多な食材をいっぱい盛りつける」タイプの、いわば保険のきかない制作はしないと思いますよ。ゆめゆめ期待せぬように。

人に頭がさげられない奴ってのは、一生 半人前だよ(めぞん一刻名言シリーズ)

・まずこれについて。個人的にはこの次の管理人さんのセリフを押しますね。ただ私にとって「めぞん」通じて最高のセリフは「ろくに手も握らせない男のことで、泣くわわめくわ、どうなってんの」(六本木朱美)に決まっている。これを言わせたくて、ここまで描いたんじゃないかと思えるくらい。この後のストーリーの伏線にもなっているし。結局この時点では、響子さんも全然大人じゃないってことですね。

 

・そういえば、さっきこれを見ていて気付いたのだが、「僕なんか生まれがいいもので」で始まるのは「あんたが大将」の3番では? 読んだとき頭の中で曲が流れたときいきなり転調していた(武田鉄矢の高音からはじまった)から気付いた。今回、訂正はしたのだろうか? 気付くのが遅くて申し訳ない。

 

ミッキー・カーチスが答えになる問題は、おしなべて「思いついたものの出しどころのない問題」になるわね。「芳村真理の最初の夫は誰?」とか「立川流Bコース、落語家最初の真打ちは立川藤志楼ですが、次は?」とか。左とん平を絡めてもダメか。ミッキー・カーチスが問題文に入っていれば・・・やっぱだめか。人間諦めが肝心。

「の・ようなもの のようなもの」

・なぜ「この前振りだとあの答えに落ち着かなければいけないのか」「そんなの勝手にさせてくれ」という「議論の・ようなもの」が発生しているようである。これについて、ほんの少しだけ専門的な話を、あえて分かりにくい形でしてみる。

 

・例えば「間口が狭く」で始まったら「鰻の寝床」が正解ではないと困る!というような思想というのは、「史上最強」的ではなく「前振り長文クイズ」的な思想が大元にある。具体的に言うと、「アマゾン川で」→「ポロロッカ!」の押しの背景にある思想と全然違う。むしろ「最高峰はエトナ山」→「シチリア島」の方が圧倒的に近い。

 

・だから、abc的クイズは、「史上最強のようなもの」でもある「前振り長文クイズ」のようなもの、と言える。

 

・などということを、時間をめちゃめちゃかけながら執筆中なのである。