うらみ侘びほさぬ袖だにあるものを此の四五日は雨の日ぐらし

・久々に、問題をアップしました。普段から「ちゃんとした問題」のみを好む人は、絶対に見ないでください。

 

・先日、あるペーパークイズをネットで手に入れて見ていたら、「雲隠れにし夜半の月かな」の詠み人は、という問題があった。

 

・仕事柄、私には一瞬で分かるわけだが、考えてみると「源氏物語」の名前のみの巻を「雲隠」と呼ぶわけで、蜀山人は「名ばかりは五十四帖にあらはせる雲がくれにし夜はの月かな」と狂歌に仕立てたことも割に有名(か?)。完全に暗記してなくても、カンとか連想とかで正解までたどれる、という意味で、面白い問題だと思う。

 

・ただ、こういう問題を見て、特に若い人達が「百人一首から問題を作れば、良問になるんだ」と安易に考えないか懸念してしまう。この問題、別に百人一首を題材にしたから良問になったわけではない。百人一首から作られた駄問はいくらでもある。だいたい、百人一首を暗記していることと、和歌の教養があることは必ずしも一致しない。もっとも、和歌の教養の有無をクイズで問う必要もない。もちろん、問うても別に良いけど。

 

・一つのテーマで作問がパターン化されて陳腐化したクイズ問題はわんさとある。確かに、百人一首の表を国語便覧とかインターネットとかで目にしながら、問題を作ることはいっくらでもできる(私はしたことないが)。ただ、そういうレファ本とかネットとかで問題を作ろうとすると、どうしても問題を探そうとしてしまう。私の理想は、問題の方から「降りてくる」ような状態。普通に生活したり、読書したりしていると、ちょくちょく問題が降ってくることがある。何とも説明しづらいが、出題する必然性が存在するのである。それに対して、探して作った問題は、何処か無理矢理な感じとか、「出題する必要ある?」と聞きたくなる感じとか、そんなのがプンプン臭う。早い話、良問になりづらい(なることもあるが、その辺の話はまた今度するかも)。

 

レファ本でも、ネットでも、パッと見たらパッと問題ができちゃった、というときは良いのである(上記ボツ問で言うと、最後の問題とかは森永HPから作成)。そんなときって自分の中で出題妥当性が高いことが多いからね。でも百人一首のように、さんざんネタにされまくったテーマに、そんな運はあまり残っていない。

 

・とか言っても「百人一首の勉強をみんながしてくるから、次はこんな百人一首の問題を作るぞ」と考えてしまう人が、きっと一定数いるんだろうなあ。「百人一首と作者を全部覚えた方がいいんだ」「そうすればペーパー1点上乗せできるぞ」という人達の存在は、良問を作ろうとするあなたの意識とは、全く関係がない。そのようにあなたは切り捨てられるか。解答者のその種の期待を裏切る方が、良問に近づけるような気がする。そんなふうに考える私の方が異端なのかもしれない。別に異端でいいけど。