固より、まだ世に行われておらぬ。

・現今のクイズの状況について、時代状況などと絡めながら分析をする論を書いている準備中に、昨日のような余計な書き込みをすると、どうしても言葉足らずになる。挙句、補足の書き込みが必要になる。ということで、非常に後悔している。

 

・今、構想中のことを少しだけ書く。構想中なので、読んでも分からないかも知れないが、とりあえず書いておく。あまり詳しく書くと、もう書く気が起きなくなりそうなので、ほんとにちょっぴり。

 

・私の今のところの分析では、「勝つことを目的として努力をしている」というのは既に「今風」ではない。「努力をすることが目的となっている状況」こそが、「今風」なのである。だから、『山月記』のように(私はあまり好きな小説ではないが)「詩家としての名声を得るため」という目的がはっきりしている努力は「今風」ではない。勤勉に努力することが自己目的化しているのが、主に現在の若い人達に起こっている状況ではないか、、、と。だって、本当に今の若い人達(の一部)って、私には考えられないくらい勤勉だもの。高校生と普段接しているから、なおさらそう思う。

 


・付け加える。普段の文章の書きぶりが書きぶりだけに、例えば「自らの努力を無にするから腹が立つ」人を、私が冷笑的に、皮肉な目線で見ていると思われているのだろうと推察する。ただ私としては、分析を進めるうちに、時代の必然としか思えないクイズ的な変化が起きているような気がしてきている。そんな状況を、批判的にでも冷笑的にでもなく、冷静に客観的に記述していきたいと考えている。


・だからといって、私がクイズに接するスタンスは全く変わりません。

 

・今回の話と全く関係ないが、一応付け加えておく。『山月記』は、李徴が「名声を得るため」という、詩人としてはあまりふさわしくない方向性の努力をしてしまったがために、単なる「上手な詩人」で終わってしまい、人々を感動させられなかった話として読むこともできる。詩人は本来、自らの生の意味を問い直したり、詩を詠まなければ自らが存立し続けることができなかったり、そういう「どうしても詩作せずにいられない」理由を持っているものである。李徴にはそれがなかった。だから心を揺さぶらなかったのである。私は、そういう話だと思っている。いろいろな読み方はあるだろうけどね。

 

・とかって余計なことを書くからダメなのだ。