狭義の競技クイズが教義にならないよう協議した

・「競技クイズ」は「自由」だとする記事が出た、ということらしいが、そもそもこの記事は競技クイズについて論じた文章ではないので、あまり話題にしなくても良いような気がする。それにしても、どうしてクイズと「勉強法」を結びつけるような文章がこんなに多いのかしら。結局「クイズ(的思考)って、日常生活にも役に立ちますよ」と言わないと食っていけない、ってことなのね。

 

・件の記事によると、「競技クイズ」と言いながら統一ルールがあるわけではなく、クイズ大会ごとに競技ルールを主催者が定めている、ということらしい。ここでいう競技ルールには、「クイズの進め方のルール」だけでなく、「問題作成上のルール」が含まれている。で、「競技クイズ」と呼ばれるクイズで出題される問題は、現状として概ね(主催者がその都度決めているわけではない)一定の「問題作成上の構文ルール」に沿って作ることが求められている。

 

・「早押し問題作成上の構文」は、どんどん統一される方向に進んでいる。で、この文法に合わない問題は、容赦なく批判されていく。たとえそれが「アタック25」のように、40年以上の伝統を持つクイズであったとしてもだ。

 

・私から見ると、この構文に沿って作るという明確な思想を持って作問したかどうか、が、「競技クイズ」と「非競技クイズ」を分けているように思う。どう強弁しても、イントロクイズはやっぱり「競技クイズ」と認めてもらえないだろうし、「昭和お笑い史競技クイズ」とか企画しても(しないけど)「そんなの競技クイズじゃない」と言う人は出るでしょう(これは「構文」に加え、「出題内容」にも「競技クイズ的かどうか」という物差しが共有されていることを表す)。つーか、これとかこれとかで「競技クイズが成立するか」を考えてみたらよろしい。ね、無理でしょ。

 

・こういう「物差し」は、「(競技)クイズ界」で緩やかに共有されていて、その共有を強める働きを「クイズ思考の解体」あたりが果たしているのだろう。まあ、そういうことはクイズの歴史ではくり返されていることなので、今は置いておく。

 

・「競技クイズ」に関する現代的問題の本質は、そういうことではない。Wikipedia「競技クイズ」の項に、競技クイズではないクイズの歴史が縷々記されているように、「全てのクイズは競技クイズに通ず」的な言説が増えることが、大問題なのである。

 

・「競技クイズこそが、クイズの正統を受け継ぎし者である」という人々の思い込みがある。この思い込みは、「競技クイズこそ、クイズの本質である」という意識を産む可能性がある。この思い込みを払拭するには、どうすればよいのだろうか。私は結局、伊沢本でもウィキの記述でも、書いてあることをいちいち疑ってみる姿勢を持ち続けるしかないと思っている。

 

・例えば「アップダウンクイズ」で早押しが導入されたことを「競技クイズの萌芽」と見る向きがある。そもそも、テレビ番組における「早押し」は、本当に「早押し能力」を測ろうとしていたのだろうか? テレビ番組制作者が演出上重視していたことは、そういう要素では無かったのではないか? とか。

 

こう言う記述を見つけた。この番組は視聴していないが、私のここの話については筆者もすでに意識しながら書いていたということだろう。どうしてみんな「全てのクイズは自分に通ず」って言いたいのかしら。そんなことで正統性を確保しなければ、自分のクイズに自信が持てないのだろうか。というのは、私の考えすぎか。