極私的全国民必聴歌 面影平野(藤圭子)

・「怨歌」という言葉には、以前から違和感を感じていた。同時代人ではない私にとって、最初の藤圭子は「懐かしの昭和歌謡」的な番組で見た、「圭子の夢は夜ひらく」であった。確か、平成元年ころだと思う。その映像が日本歌謡大賞第1回であったことは、後で知った。園まりの「夢は夜ひらく」とか、三上寛とか、そういうのもずっと後で聴いた。
 
・時代背景も藤圭子の生い立ちも無視して曲を聴いたら、「怨」というイメージはわき上がらないように思う。しかし、人々は(当然だが)そのイメージを藤圭子に求めた。だから、極度にハスキーな声を歓迎した。このたびの報道でも、のちにクリアーな声になった藤圭子の曲にはほとんど言及がなかった。やはり人々は、芸能人に「ストーリー」を求めているのだ。ただ歌がうまければいーじゃん、とは、ならない。
 
・さて、私は以前書いたように「面影平野」(1977年)を準全国民必聴歌に指定している。時代のイメージと重ねることもできるが、今の時代に持ってきても充分聴ける。この辺が比喩を主体にした歌詞の強みであり、阿木・宇崎コンビの見事なワザでもある。同じコンビでも「想い出ぼろぼろ」の方は、やや時代のにおいが強い。
 
・だいたい、「切ないよ」と心情を単純化してはっきり訴えるような歌詞は、歌手にはきっと歌いづらいはずなのだ。そこまでの前フリがあって、それをまとめて初めて「切ない」という言葉が生きてくる。その流れも見事な表現力で歌いきっている。
 
・部屋が平らであることを強調するタイトルは、そのまま語り手の目線の置き方を表している。ずーっと床ばっかり見て、そこが面影を写すスクリーンになっている、というイメージは凄まじい。しかもスクリーンに映る映像は基本的にモノクロ。それに色を付けようとして、赤いお酒をこぼしてみる。どうやれば思いつく歌詞なのか。説明するときりがないが、とにかくすごい歌詞。それに負けない歌い手の力量がはっきり試されている。
 
・私はこの曲を、「夜のヒットスタジオ」再放送で見た。繰り替えし見た。余談だが、このとき内山田洋とクールファイブが同時に出演している。しかも、前川清の祖母も出演している。何でそんな日にブッキングしたんだろ。
 
・家族を支える少女が歌うという強烈な背景を持つ「怨歌」は、人々を感動させたかも知れないが、それは芸ではない。そこから脱皮し、脂の乗りきった大人の歌い手(このとき26歳)として凄みすら感じさせる歌いぶりは、是非多くの人に見てもらいたい。
 
・と思っていたら、何と宇多田ヒカルが同じことを考えていたではないか! これにはびっくりした。彼女も感じているのだろう。このときの藤圭子が、歌手として一番良い姿であることを。ということで、極私的国民的必聴歌に格上げします。