新年度に際して

・相変わらず、クイズのことをいろいろ考えている。例えば、

ウルトラクイズの歴史的意義は、クイズを「遊び」から「マジなもの」にしてしまったことである。たぶん。この「意義」は、「功」と「罪」と言い換えてもいい。もちろん、それまでにもクイズ番組でマジになる人はいた。が、基本的にクイズ番組は楽しい番組だったと思う。で、私としてはもう少しクイズを「遊び」の方に戻しましょ、と主張したい。マジになってどないすんねん、と言う人がいないのは何故か。ま、シャレをや時の運を売り物にしたウルトラクイズが、「マジなクイズ」の元祖となったのは歴史の皮肉である。

ウルトラクイズを、クイズ番組の歴史の一コマとして見てみることで、理解できることがもっともっとあるのではないか。例えば、第7回で何故かボタンを押すシステムが変わった。これは何故か。ヒントは1981年放送開始の「100万円クイズハンター」にあるような気がするが、それ以上論証できない。だれか考えて。

・ひとつのフォーマットで使えるネタには限りがある。特にテレビ番組には「テレビで放送するのにふさわしい」という制約があるから、なおさらである。解説がきれいで面白い「トリビア」や「雑学王ネタ」は、そんなに何百個も存在しない。「Qさま!」的な漢字問題も、必ずネタ切れが起きる。「ドレミファドン」で出題できる曲は、そんな何百曲もない。「守ってあげたい」とか「別れても好きな人」とか「夢芝居」とか、毎週のように繰り返し出題される曲が出てしまう。思えばクイズの歴史は、「フォーマットの乗り換え」もしくは「ばれないように使い回す」ことの歴史だった。

・現在「短文系」「長文系」など様々なクイズジャンル(なのか?)があるようだが、これらの問題の特徴が代わり映えせず、ジャンルさえ固定されているのは、根本に「史上最強」を置いているからである、と言うことに今更気付いた。私は「史上最強」を見ないで育った秋田っ子なので、そんなことにすら20年以上気付かなかった。ということで、「史上最強」の本を少し読んでいる。詳しい研究成果は後ほど。