・別にウルトラクイズ復活!に水を差す気はないが、ここぞとばかりにウルトラクイズへの個人的な思いを語る50代が多いようなので、私もそれに乗っかって、だらだらと文章を書いてみる。以下、極めて個人的な内容に過ぎないが、この世代のクイズプレーヤーにもこういう考えの人がいる、と言うことを述べておきたい。誰かのXの書き込みみたいな長文なので、興味のない人は読まない方がよいです。
・私は、ウルトラクイズが昔から相当好きなのだが、なぜか挑戦者と自分を重ねたことがない。見事にない。自分が出ている姿を想像することが、全くできないのである。どんなものを見ても自分を重ねることができないタチなのだから仕方がない。だいたい、いまだに自分がグランドスラマーであるという実感が持てていないくらいなのである。
・だから、ウルトラクイズは昔から「見るもの」であって、「出るもの」だと思えなかった。プレステでウルトラクイズが発売されたとき、ウルトラ風の字幕で自分の氏名と出身地が画面上に出ると知ったので、これで少しは番組に出る気分が味わえるかと思ったのだが、私の名前にある「々」の字が出なかったため、全然ダメであった。
・ということで、ウルトラクイズ復活と言っても、何処か別の世界で起きている出来事のようにしか思えない。出場しようという気持ちは全く起きない(生活面や仕事面を別としても)。だいいち、私は自分を「(クイズ的な)ロストジェネレーション」と位置づけたことがない。むしろ「大学の時にウルトラが無くてよかったなあ」などと考えてしまう人間なのである。こういう気持ちは、共感を得られにくいので、あまり外に出したことはない。
・どうも私の「ウルトラクイズへの思い」は共感が得られにくいらしい。第13回準決勝とか第15回ドミニカに深く感動した、という人が我々の世代には多い。前者については「クイズ問題をたくさん聞けてうれしい」以上の思いはないし、後者については「ルールがいまいちだよなー」くらいの思いしか持っていない。当時からそうである(そもそも第15回以降のウルトラクイズは、あまり繰り返し見ていない)。
・何度でも書くが、私は「一般人(クイズの訓練を積んでいない人)がクイズをするところ」をテレビで見たいと考えている人間である。だから、ウルトラクイズでも「クイズの手練れが活躍する」というのがあまり好きではない。ウルトラクイズは、クイズ自体に取り組むことも冒険であってほしい。そのためには、クイズそのもの(クイズのルール、ではなく)がハードルとして働いてくれないといけない。クイズの手練れにかかると、クイズ自体は全然ハードルにならないのである。これは高校生クイズでも同じである。
・例えば第10回アトランタで「みおつくし」の問題を答えようか迷って結局押さなかったシーンなどは大好きな場面である。逆に迷いつつ押すような場面、例えば第10回で言うとモニュメントバレーの「さんま!」などは良いシーンだ。一般の人からすると、クイズに1問正解することはかなり大変なことなのである。そういうのが感じられるクイズが見たいのだ。
・だから、私が名勝負を思いつくまま列挙すると、第4回イエローストーン(の最後のほう)とか、第6回ダラス(の最後のほう)とか、第7回レイクパウエルとか、第8回ダコタ・インディアナポリス・キーウエスト・バハマとか(内野さんに外れなし)、第9回アナポリスとか、第11回バッドランド(の最後のほう)とか、第14回レバノン・エリーなどとなってくる。インディアナポリス以外は名勝負という謂を耳にすることがない。
・私はよく「答えてうれしい問題」という言葉を使うが、そこにはこういう背景がある。そういう意味では、やっぱり私もウルトラクイズに影響されていると言える。ただ、ウルトラクイズで素人さんが答えるならベタ問題で十分なわけだが、私の場合はクイズの手練れにとって「答えてうれしい問題」を作ろうという野望を持っているわけだから、ウルトラクイズの問題を真似してもその達成は不可能である。「強い影響は受けたが、パクることができない」、言い換えれば「近づかないことで近づける」、私にとってのウルトラクイズとは、そういう存在であり続けている。