それでもやっぱり考えてしまう あーこのけだるさは何だ

・ということで、yahooブログが終わるので、移行しました。これからはこちらで。

 

・最近忙しすぎて、クイズについて書くのが億劫になっている。それでもやっぱり、いろいろ考えてしまう。でも、文章化がめんどい。そんな私に「少しはまじめにやれ」ということなのか、持っていなかった「カルトQ」の単行本(92年)が手に入った。出張先で時間が空くと必ず古書店を回る(それしか趣味がない)が、そこで見つけたものである。これだから古書店道楽はやめられない。

 

・で、「カルトQ」である。テレビで見ているときはそこまで強く感じなかったが、活字で見ると、まあ問題文が粗い。私も無造作に問題を作る人間であるが、「カルトQ」の無造作には及ばない。よく言えば「素材の味を活かした問題」、厳しく言えば「もう少し問題文を練った方がいいんでないかい?」。だって「小石川の『ハッピ軒』、ここの座席数はいくつ?」だぜ。

 

・一方、「最近のクイズの問題文って、きれいすぎないか?」ということを、このごろよく考える。何というか、細部にわたり非常に行き届いていて、とっても端整に仕上がっているのである。この場合の「端整」というのは、「美しい」というのとは違う。早押しのミスリードになっていないか、問題を発声したときに誤解を招かないか、他の答えはあり得ないか、答えやすい問題になっているか、そういうことをすべて配慮した問題が当たり前になっている。

 

・そうすると、どうしても問題文は長文になりやすい。クイズの問題文は、ここ30年でかなり長くなっている。配慮すべき事項が多くなりすぎてしまったんですな。「アタック25」の昔の問題と今の問題を比べても分かる(アタックのスタッフは、答えを限定するために長くなってしまうのだと言っていた)。なお、これはいわゆる「クイズの長文化」とは全く違う文脈で起きてきた現象であることを特に断っておく。

 

・今のクイズ問題は、様々なことに配慮し、なるべくケチの付かない問題文にすることを主眼としているわけだが、では「カルトQ」の問題は何を主眼に作っているのか。少なくとも、クイズ問題としての美しさではない。クイズ作家があの問題を作ったのだとしたら、ピカソ的にすごい。答えの単語のインパクトというのとも違う(「99人の壁」はこの辺も狙ってますね)。だって、カルト問題に1問正解したところで、そいつのすごさが伝わらないのよ。放送では解説だってそんなにしないし。

 

・これは単行本の記述にも関わるが、「カルトQ」で最も大切なのは、一つのジャンルについてありとあらゆる方向から問題を出しまくり、それらに正解しまくる解答者の、カルト知識の幅広さを見せることなのである。「幅広さ」というところがポイントである。1問2問正解したくらいで、誰もすごいなどと思ってくれないのである。「幅広さ」と「問題量」が確保されているから、視聴者はカルトキングにふさわしい人物だと納得をして番組を見終えるのだ。だから、ジャンル設定は非常に重要だ。狭いジャンル、広がらないジャンルでは幅広い問題は出せない。

 

・問題作成の配慮点、「幅広さ」に加えて、もう一つある(と思う)。それは「解答者が、答えて嬉しいか」「解答者が、答えを考えたくなるか」「解答者がその問題を聞いて喜ぶか」という点。これは予選問題から一貫しているように思う。解答者が嬉々として解答する姿。そしてそれを温かく見守るバンドマン・うじきつよし。この構図こそが、ともすればオタク集団番組になりかねない危険性を払拭し、マニアの憩いの場という雰囲気を醸しだし、出たいと思う人を無限に生み出していく。

 

・「カルトQ」に欠けていたものがあるとすれば、視聴率を取りに行く姿勢だった。要は、視聴率を取りに行ける構造になっていないのだ。深夜番組でほそぼそと続けていればよかったのに。

 

・結論。「99人の壁」と「カルトQ」は、何もかもが違う番組です。