青春という名のラーメン

・前回の記事の内容を、一応補足しておきたい。

 

・クイズ番組に出題する、という観点から言えば、1回戦で「10問目にどういう問題が来たかによって、著しく有利になったり不利になったりしたこと」そのものに対しては、別に批判する気は無い。クイズ番組なんてそんなもんだから。クイズ番組というものはそれなりに不公平であり、運も重要であり、そういうものであり続けてきたわけで。「全てのクイズが公平であるべきだ」とは、一切思っていない。

 

・ただ、「努力が報われる」と高校生を煽っておいて、出題される問題の有利不利の差があんなにも眼に見える形で存在することに対して、いかがなものなのか、と言いたいだけなのである。クイズだから、完全に公平にすることは無理である。そのくらいは理解しているつもりである。それでも、「努力が報われる」と参加者が思えるための最低条件として、せめて公平な感じを演出しようという努力があって然るべきではないか。

 

・クイズ番組において、完全に公平な状況を演出するのが非常に難しいものであるのは承知している。出題される問題による有利不利は、クイズにおいてどうしても否定できないものであるから。それでも、いやしくも「努力が報われる」と標榜するのであれば、もう少し何とかしなければいけないのではないか。それが無理なら、「努力が報われる」などと、言わなければ良いのだ。

 

・私が本来の自分の思想(努力なんてクイズに関係ないさ、というような思想)を枉げてまで、何故ここまで「完全にフェアな状況でやってほしい」と言っているかというと、彼らは部活動やら同好会活動やら、そういう学校の教育活動の一環としてクイズを行っているからである。テレビなんて、ピュアな人をだまくらかしてマジにさせて、その姿を見世物にするものである。そんなことは高校生もたぶん分かっている。ただ、部活動やクラブ活動としてマジにやっていて、高校生クイズを「インターハイ」くらいに思っている生徒達を出場させている責任くらいは、感じてほしいと思うのである。

 

・私がクイズを高文連に入れない方が良いという理由の1つに、クイズをしている高校生達がマジすぎるから、というのも、確実に存在している。クイズという遊びは、今後どれだけ競技化が進んだとしても、ウブでありマジすぎる人に対して真に適切に対処できるほど、厳密な競技になり得ないと思う。部活の大会には向かないのだ。結局、クイズ大会はエンタメであることからどうしても逃れられないということです。かといって演劇部門や吹奏楽部門のように、完全なる審査で勝敗を決めることも無理だし(審査基準を審査員めいめいが長文で述べ合ったとしても)。

 

・もうひとつだけ。昨日午前中、NHKで「これがボクたちの青春!〜高松工芸高校ボクシング部〜」というのが再放送されていた。番組中、ボクシングの試合シーンはごくごく最低限に限られていて、それ以外の高校生の心の動きに焦点が当てられていた。ボクシング番組ではないから、当然である。紹介される部員の抱えているものが、一人一人違うから、ずっと見ていられた。

 

・「鳥人間コンテスト」もそうだ。飛ぶシーンより、それ以外のシーンの方が圧倒的に長い。つーか、「高校生クイズ」もそうだよね。

 

・で、結論。どうも私が高校生クイズにはまれないのは、結局クイズをする高校生がみんな同じに見えてしまうからではないか。今のクイズは、どうしても個性的なプレーヤーが、個性をぶつけ合うようなクイズになりにくい。クイズに精度が求められれば求められるほど、そうなる。これは、どんな分野でも起きていることである。今あり得る個性というのは、藤井聡太ばりに「超強い」ということだけかもしれない。でもまあ、人間だから、微妙に個性的であるはずなのだ。どうすればそれを見せられるか。

 

・今までは「県代表」という要素が、最低限の「チームの個性」を担保していたのだが、それがなくなった今、2時間番組の中で高校生の個性を表現しきるのは難しい。いっそクイズのシーンを今以上に極限まで削るしかないか。どんだけ事前の努力をしまくってきたかVTRで紹介し(そこで個性をなるべく見せまくる)、クイズはほんのわずかのダイジェストだけ見せる。これでも「青春」はすべて見せきることができる。「24時間テレビ」の手法ですね。で、クイズそのものは有料サイトでじっくり見せる。解説したそうな人に解説させれば尚良し。問題を電子書籍として販売する。このビジネスモデル、完璧じゃない? どっかで見たようなモデルだが。