あえて本音で上げてみる(教えよう!より)

・「ユリイカ」、少しだけ読んだ。自分の思考の整理のために少しだけ覚え書き。結構何回も書くネタができちゃったようなので。

 

・冒頭の鼎談。「共犯関係」にまで踏み込んで書いたことが驚きであった。もちろん、ここで述べられている共犯の内実についてはこのブログでもちょいちょい話題にしてきたし、分かっている人には充分分かっている内容ではある。ただ、共犯の張本人とも言える人物から、手品のタネあかしがされた。クイズを取り巻く状況が変わってきたということか。もしくは、単に氏にとってのビジネスモデル(=稼ぐネタ)が変化したということか。ともかく、結構本音が出ているように思った。

 

・学歴についての分析、東大王を殆ど見たことがない私は蚊帳の外。個人的には、東京大学に入った人間が、別にことさら頭が良い人間でもないだろうと思っているので、東大ってすげえなー的な演出は嫌いである。だから、学歴とクイズに関する分析はそもそも私に向いてない。

 

・私は、現在のクイズを分析する上で、避けて通れない要素として「自己顕示欲を満たすツールとしてのクイズ」という観点があると感じている。伊沢氏は「暴力性」と(多分哲学用語を意識して)述べているが、根っこは一緒だと思う。ただ、「自己顕示欲」と言うと露骨だよな。でも、ちょっとした自己顕示欲がほんのちょっとの努力で満たされ得る、稀なゲームがクイズであることは強調しておきたい。

 

・一番興味深かったのは、歌人佐々木あらら氏が書いていた、クイズ王ブームの後になぜクイズ番組の人気が急速に落ちたか、について。一般には「視聴者に飽きられた」とか「難問になりすぎた」と分析されるところだが、氏は「早押しクイズの『定型』が完成してしまったから」と分析。「史上最強」がその後のクイズにおける、ある種の「型」を提供していることは間違いないが、その構造的な問題がクイズのその後にどう影響したのか。

 

・そのことを知るためには、そもそもここで提供された「型」がどのようなものであったのかを明らかにせねばなるまい。もちろん、「型」は単に「文体」とか「語順」などを指すのではない。どんなネタに出題する価値があるか/ないか、とか、難易度設定はいかなる基準でなされるか、とか、そういうクイズの出題妥当性に関わるすべてにおいて一定の「型」がわりかし厳しく設定されている。

 

・厳しく設定される背景には、何らかの権威的な存在が必要となる。クイズの歴史は、クイズプレーヤーが何を権威としてきたか、その歴史でもある。で、クイズ史上唯一、その権威を一人で担う瞬間を持っていたのが、道蔦氏だった・・・というのは私の論。

 

 ・徳久氏は「クイズは世界に対する価値判断を含む営みだ」としている。そもそも価値判断を含まない営みが可能か、という問題は措いておく。私が知りたいのは、大多数のクイズプレーヤーにとってのクイズ的規範において、そこに反映されている「価値」はいかにして決定されてきたのか、という点である。どうせ種明かしするなら、そろそろそこに言及する人が現れてもいいのではないか。

 

・他にもモヤモヤいろいろ頭に残っているが、整理しつつ、少しずつ書く。

 

・こないだのボツ問。「どうみてもカタバミにしか見えないのに、別名を「クローバーマーク」という、自動車に掲示する標識は何?」という問題。なんか引っかけっぽくて出題しなかった。特にファンの人には。ちなみに、我が家の庭にはカタバミもクローバーも生えている。どっちも緑色だが。