恋がどうした愛がどうしたとか うわ言のような詩が書いてあるだろ!(両津名言シリーズその1)

・最近更新してないので、些か旧聞に属するが、手に入れた証拠でも。

 

・せっかくなのでもう少し書く。高校生クイズにしても、作問甲子園にしても、とかく最近のクイズはコンセプトやら審査基準やら、なんだか口幅ったい。理念のような理想のような情熱のような思想のような、そういう「作文」を発表しないと、大がかりな(=大人数を納得させる)大会はできないということだろうか。

 

・大学時代に教わった「クイズなんか、その場にいる人が面白ければそれでよい」ということが、心に深く沈潜している私からすると、こういう風潮が非常にうっとうしい。久しぶりに「たかがクイズじゃねえか、ぐだぐだ言う必要があるのかね?」と声高に言いたくなっている。

 

・「作問甲子園」について。一人一人の審査員が、審査基準を発表する必要があるのだろうか。大会運営委員会がざっくりした基準を設けるだけではいけないのか。なお、基本的に私は「クイズの作問を審査すること」に、反対である。まず、審査員が権威を持つことがそもそも嫌だ。私なら「あなたがたに審査されたくない」とか言いそう(高校生のときでも)。でも、高校生は、評価されることにどんどん抵抗感がなくなってきている(教員25年目の実感として)。だからこそ、作問くらい自由にさせなよ。

 

・だいいち、作問まで「競技」にして競う必要があるのか。結局、一定の基準(「早押しに向いている」とか「解答者に答えてもらおうという姿勢が現れている」とか、そんなの)に沿った、「作問上の失点」の少ない「上手な」問題群が評価を受けるのだろう。それでクイズは面白くなるのか。いや、そもそも面白い問題なんか世間で求められてないか。

 

・一応付言しておくが、高校生が問題を持ち寄ってクイズ大会をすること自体は、全然否定していない。作問はクイズの醍醐味である。AQLがクイズ研究会の拡大例会のような位置づけであれば、それが理想だろう。ただ、AQLは大きくなりすぎてしまった。そして、競技的になりすぎてしまった。私が問題視しているのは、AQLは不特定多数のクイズ者が「早押し」だけで競い合うシステムを取っているため、「早押しに向いた問題を出題すべきだ」という有形無形の力がはたらき、結局自由な作問や出題ができないようになってしまっていることである(これは現在至る所で見られる現象である)。逆説的ではあるが、多くの高校生が問題を持ち寄る大規模な大会より、田中健一さんひとりが作問しているやや小規模な大会の方が、クイズ問題の可能性を広げているのではないか、そんな気がしてならない。

遠くであなたが 呼んでる気がする アナ アーウィズ アローホ NILE

・5月4日(水)に、TQCのOBによるオンラインクイズに参加した。年を取り、クイズから距離を置いて生活していると、クイズというものが日常と違う頭の「働かせ方」を強いてくるゲームであることを、強く感じる。しかも、問題によって異なる「働かせ方」が求められる。さらに、個々の問題が読まれ始めても、その問題ではどういう「働かせ方」が求められているのか、にわかには判然としない場合が多い。そういうクイズばかりを、30年近く志向してきた。作題者としても解答者としても、である。

 

・そういう姿勢でいる限り、生涯を通じて、どんな問題でも楽しめるし、どんな知識でも自分なりに料理して問題を作れる。ただ、頭が固くならないように気をつけて生活しさえすれば、であるが。

 

・で、結局何が言いたいかというと、「クイズで必要な努力は、柔軟な頭を保つことくらいじゃないの?」ということ。別にナゾトキに勤しめ、ということではない。「ナゾトキ」にそれほど柔軟な頭は必要ないと思う。

 

・ちなみに、高校生クイズには、基本的に興味がないので悪しからず。ただ一言だけ言うと、これだけコロコロ路線が変わる番組なので、どういう努力をすれば良いか予想がつかないんですけど。

 

・ちなみに、「99人の壁」のグランドスラマーの集い(なのか?)には、呼ばれてもいません。悪しからず。

 

・ちなみに、私は秋田のクイズ好きですが、Youtube出演に関わることには一切興味がありませんので悪しからず。

監督ばんざい

・私は副業のない現役の高校教員である。で、高校生のクイズを「部活動的な活動」にすることに、一貫して反対し続けている。かつ、ここ数年「クイズ同好会」の顧問をしている。それを前提とした上で。

 

・それでもどうしても部活動的にしたいのであれば、最低限、次のようにした方が良いと思う。①「司会者」を排除すること(出題者や審判は必要だけど)。途中経過を説明するような人も必要ない。見る人にとってどうすれば面白くなるかなど、一切考えるべきではない。②試合中に顧問・監督的な引率者がアドバイスをしたり声をかけたりすることを禁止する。ギャラリーによる応援も禁止。

 

・①について。司会者の言動が高校生のメンタル等に影響を与え、勝負の行方を左右する可能性がある。つーか、部活の大会で、試合の状況を選手に聞こえるように解説する人間がいるなどという状況は、絶対にあってはならない。まともな教員ならそう考えるはずだ。問題読みと正誤判定者、得点表示係くらいで良い。

 

・②について。応援やアドバイス、声かけを認めると、どうしても相手にプレッシャーをかける方向に使いたがる人が出てくる。絶対にそうなる。なぜかクイズをスポーツと同列に考えて、スポーツの応援やアドバイスのようなイメージを持ってしまう人がいる。而るに本当にクイズを部活動にしたいなら、文化部としての王道を行くべきである(だって高文連に加入したいんでしょう?)。将棋や囲碁の最中に応援やアドバイスをするか? たとえ「その方が選手のやる気が出る」という意見があったとしても、無視すれば良い。

 

・一般論として言えば、部活動の監督というのは、勝っても負けても、自分たちの戦術について軽々しく外部に公開するものではない。私はそう教わってきた。ましてそれがあまり褒められた手段でない場合は、なおさらである。そして言い訳をしない。部の監督というのはそういうものなのである。

 

・結局、クイズを部活動にするために最も欠けているのは、「クイズによる部活動を通して、どのような教育的効果を目指すか」という点だろう。私には、その答えが思いつかない。教育的効果を上げるためにクイズを使うのは、どだい無理だと思っているからである。それでも部活動として世に認めさせたいなら、せめて「教育的効果とは真逆な行動」を取らないようにしないといけませんね。

Ya Ya(あの時代を忘れない)

・『ラジオの昭和』(丸山鐡雄・幻戯書房)という本を読んでいて、気になる内容を見つけた。調査のしようが無いので、ここで紹介してしまう。なお、著者の丸山鐡雄はNHKのプロデューサーとして活躍した人物であり、丸山眞男の兄である。

 

・この書によると、昭和15年の秋に放送された「演芸お好み袋?」という番組は、「クイズ番組のハシリのようなものだ」という記述がある。内容は、「落語でおなじみの町内の顔役のご隠居さんが自分の家で懇親会を開き、芸自慢の連中にそれぞれ芸を披露させ、最後にアナウンサーが只今の司会のご隠居さんは誰、歌謡曲の若旦那は誰、浪花節の熊さんは誰という具合いに出演者名を発表する趣向」だったそうである。

 

・第1回のご隠居は徳川夢声(また出てきた)、他に東海林太郎小唄勝太郎柳家金語楼牧野周一らが出演した。で、第2回からは聴取者に出演者を当ててもらうハガキを募集し、正解者から抽選で百名に記念品を出したというのである。これをクイズ番組と言わずに何と言えばよいのか。

 

・正解者多数だったため、第3回では古川ロッパ徳川夢声声帯模写でご隠居役をし、前田勝之助浪曲物真似)が広沢虎造の声色を演じ、聴取者を引っかけようとした。それでも千人以上が正解したとある。なお、放送は第3回で終了している。

 

・「クイズ番組」という明確なジャンル分けが無い時分の話であるから、これを「クイズ番組のハシリ」と言えるかどうか疑問だが、戦前にも楽しいバラエティー番組を作ろうとしていた制作者がいたことは、記憶されても良いと思う。当該年度の『ラジオ年鑑』にも全く記載が無いし。でも、ラジオでラジオならではの番組を既に放送してた、ってすごくない?

 

・ということで、「独自研究」第2章もラジオ時代を取り上げる予定。いつ書き上がるやら。

「クイズ史の独自研究」草稿以上完成未満

・本来であれば、小出しにするのは良くないのだが、いつ完成するか分からないので、暫定的に公開する。各章ごとにpdfで公開し、全て完成したら1つのpdfファイルにまとめる予定。

スマホだとクリックだけでpdfが開く模様。パソコンだと、ワンクリックだけではダウンロードできないようなので、こちらから開くのが良いと思います。

 

タイトル「クイズ史の独自研究

はじめに

第一章 クイズ番組の原型「話の泉」

・以下、完成次第アップしますが、いつになることやら。

プレスリリース

・「アタック25」が復活とのこと。私は、一度終わった番組が復活すると、碌なことが無いと思っている。また、「放送枠拡大」で面白くなった番組を寡聞にして知らない。クイズ屋的なプロが問題作成に加わることで、クイズマニアが安心して超早押しをするような「アタック25」になってしまうなら、そんな番組は見たくない。これら私の危惧が杞憂に終わり、「クイズの原点がそこにある」と言える、残酷で美しい「アタック25」が復活することを切に願っている。

俺とお前は まるでなつかしい友達さ(ドラマ主題歌シリーズその1)

フォークダンスDE成子坂特集視聴。確かに面白いし、成子坂のコントがテレビで見られるのは喜ばしいことだが、テレビ用のコントだったのが残念。成子坂のコントが、後の(つまり今の)コント師たちの演目にどれだけ影響を与えているのかを示すには、ライブビデオから珠玉のコントを2本くらい見せないと。

 

・とはいえ、悲劇のコンビという形ではなく、時代の最先端を駆け抜けて今も影響を与え続けている伝説のコンビ、という形で取り上げたのはよかった。「お笑い実力刃」って今後はこっちの路線でいくのだろうか。

 

・彼らが活躍した1990年代。この時代は、世間の訳知り顔をした人たちが、「新しい笑い」を「シュール」という言葉で括って説明した気になっていた。でも今回の番組ではそういうこじつけの説明ではなく、芸人さんたちが芸人さんの感覚で「成子坂の何処が面白いか」を教えてくれた。そして、その言葉のどれもが我々にとって分かりやすかった。成子坂のコントがもはや、現在のお笑いシーンにとっての「古典」となっているからに他ならない。

 

・意識されない形で後続の文化に幅広く溶け込んだものこそ「古典」と言える。物語の文体のみならず、少女漫画の成立にまで影響を与えている(と私は思っている)『源氏物語』は、やっぱり古典なのだ。ドラマ「俺たちは天使だ!」はコメディードラマの古典なのだ(なぜかこのドラマのことを最近思い出した)。成子坂のコントに既視感を覚えた若者が多かったと思いたい。見たことがないのに懐かしい気がするものってあるのよね。

 

・ところで、クイズの「古典」って何ですかね?