こんな天気は僕には似合わないんだと 肩をすぼめて歩く時

・なんか昨日から今日未明にかけて、やたらアクセス数が多かったようだ。私の考えなんか別に読まなくてもよいが、そこから私のクイズ問題にアクセスした人が多くなったとしたら、これに勝る喜びはない。

 

・私のHPやブログの内容としては、あくまでもクイズ問題がメインであり、私のクイズ思想はオマケにすぎない。どんだけ偉そうなことを言っても、実践をしてなければ意味ないもんね。秋元さんは問題を褒めてくれたが、たった30問しかないから、万が一良問が含まれていてもそう大したことではないわけで。

 

・昨日のブログの取り上げられ方について、ひとつだけ。クイズに派閥というものがあったとしても、私は常に「無派閥」であり続けると思う(これはポリシーと言うより、性格上の問題である)。サークルには入っているが、ウチのサークルは思想的なつながりゼロだし。つまり何が言いたいかというと、私は誰の味方にもならない、ということですね。相変わらず、陰日向にいて、皮肉とか憎まれ口とか叩くこととなるでしょう。やっぱ1日のアクセス数は30以内でとどめておきたいところ。

 

・やっぱもうひとつだけ。生徒のやりたいようなクイズを尊重するのは教員として良いことだ、という感じの評価を受けた。ということはそうでない教員というのが世の中にいるということかしら? 基本的にクイズと教育を絡めるのはあまり好きでは無いが、「クイズ問題を自分で作問し、出題すること」には多大な教育的効果があると考えている。同じような発想から、私が担任するクラスでは、生徒が書いた学級日誌の文章を、すべて印刷して配付している。発表を前提とした創作こそが、生徒の力を飛躍的に伸ばす。これは、国語教師としての経験から、自信を持って言える。と、たまには教員らしいことを。

日経エンタテインメント!

・問題をアップしました。30問だけですが。

 

・AQLが日本経済新聞社と共催になったそうだ。こないだの東北大会には、私の勤務校のクイズ同好会も参加した(本人達の希望ですよ、あくまでも)のだが、「この大会がどういう大会か」「加盟するとは、どういうことか」を学校で説明するのが大変だった。新聞社が共催ということになれば、非常に説明しやすい。

 

・AQLというのは、要はサークルごとの早押しリーグ。この「早押し」に限定しているところに、はじめ非常な違和感を感じていた。結局「早押し」に特化することで、例えばabc的なクイズばかりが行われてしまうのではないか、と懸念されたからである。そこに、文化としてのクイズの幅の広がりや許容性の入り込む余地は、ないような気がしてしまっていた。

 

・今は、全く別のとらえ方をしている。このリーグのポイントは、「問題を持ち寄る」という点にある。だから、同じ大会の中で、毛色の違う様々問題群が出題されうる。ここに「文化としてのクイズの広がり」の可能性が出てくる要素がある。つまり、各サークルの出し問題の多様性がカギなのだ。今後数回の実施の中で、「いろいろな種類の問題が楽しめる大会だから嬉しい」という声が高まれば、「早押し問題でも充分多様にできるじゃん」という考え方が広まるかもしれない(まあ、多様にできるに決まってるんだけど)。みんなが競技クイズっぽい問題とか、abc的問題とかで揃っちゃったらどうしようもないのだが。

 

・そのためにも、「日経1問グランプリ」は非常に重要である。いや、どのサークルの問題が優れているかとか、そういうことはどうでもいいのだ。ここで出てくるはずの「審査講評」が重要なのだ。クイズの世界を広げてくれるのに寄与する意見が出てくることを切に祈っている。もちろん、そうでなければ我々がサイト上で代わりに意見を述べましょ。少なくとも、早押し理論から離れたところで意見を述べてほしいものであるが、果たして。審査員の方々、私は面識がないから、そういうことを託せる審査員なのかどうかわかりまへん。

 

・「99人の壁」。東大出身でも教員でもあるのに、全然お呼びがかからない。私に何か問題があるのだろうか。例えば、子どもでも容赦せずえげつなくブロックしそうなヤツだと思われてるとか。

オレだけの秘密の戦略

・で、お前は結局何が言いたいんだ、と思っている人が多いだろうから、前回の続き。

 

・前回述べたように、「史上最強のクイズ王決定戦」は、昭和クイズ番組ブームと、当時の最新早押し理論を同時に達成することで、すべての世代のクイズプレーヤーに対する配慮を成し得たクイズ番組であった。で、そこには問題監修の道蔦氏のクイズ的価値観や美意識が、見事に結実していた。

 

・私は、この道蔦氏のクイズ的価値観や美意識こそが、平成クイズ史のすべての現象を読み解くカギになっていると考えている。平成クイズ史においては、道蔦氏が考えて(主に「史上最強」で)実行してきたことを、部分部分拾い出してきて、それぞれを発展させてきた現象だけが「主流」と見なされてきた。「史上最強」で行われなかったことは、どうあっても「主流」にはなれない。具体的にどういう動きがあったかは別稿に譲るが、そう仮定すると、様々なことがすっきりと理解できてしまう。例えば「問題の形式」「文体」「出題ジャンル」「問題の読み方」などなど。

 

・ひとつだけ例を挙げておくと、「道蔦本」では昭和60年の時点で、既に平成中期にクイズ界を席巻した(しすぎた)「前振り長文クイズ」について触れている部分がある。長文のストレート問題として、「連合国側の「ノルマンジー上陸作戦」を指揮し、のちに第三四代アメリカ大統領になった「アイク」の名で親しまれた政治家は誰でしょう?」という例題を挙げ、「より早いポイントで押せるようになるには、より深い知識を持っていなければならない」と説明している。「史上最強」にも当然反映されているこの要素を、平成6年くらいから10年以上深掘りしまくって追い続けた人達がいて、それがいかにも「正統的なクイズだ」と主張されていたという歴史的事実は、確実に存在している。

 

・私は、道蔦氏と面識も無いし、別に功績を称揚せんがためにこうした文章をものしている訳ではない。もちろん、クイズの裾野を広げた功績は非常に大きいと思う(褒めすぎか?)。

 

・ただ、わざわざこのような文章を記したのは、現在過去未来すべてにおけるクイズ分析の際に、氏の行跡を一種の「物差し」として使えると思ったからである。早い話、分析にはスタート地点があった方が楽なわけで、そういう存在を見つけたから紹介したかったということ。ま、結局そういう分析をするのもオレだけか。

 

・書いた理由はもう一つある。「史上最強」の客観的な分析ができるのは、多分私だけじゃないかという気がしたから。おっさんのくせに、TBSの放送されていない地域にいて、「史上最強」を全く見ずに青春時代を過ごしたからね(本は読んだけど)。

 

・M-1で言っていたが、漫才の歴史はダウンタウン以前と以後で分かれるそうだ。それはいつも私が言うように、ダウンタウンはそれまでのお笑いをすべて踏まえた上で、新しいことを混ぜ込み、さらに圧倒的な支持を受けたからだ。クイズで言えば、それが道蔦氏だ、ということですね。ちなみに私は、「当たってくだけろ」も殆ど見たことありまへん。

 

・一応この話にかこつけて付記しておく。一番分かりやすいのは第9回アナポリスで、島畑さんが勝ち抜ける直前3問。3問連続「では」のパラレルなのだ。で、「では、カンパリといったら」「では、ほらふきのつく嘘は何色」の2問については一拍置くが、「ではタレント高見恭子の父親は」では続けて一気に読んでいる。まあ、その都度自然な読み方をアナウンサー的感覚で選んでいるのでしょう。少なくとも、クイズのポイントという観点で読み分けている訳ではない。私は、問題読みというものはそれで良いと思う。

時を戻そう

・史上最強とウルトラ13回の関係性について、書いていなかったことがあるので、何となく書いてみよう。新年から長文でっせ。
 

・第13回ウルトラからややあって発売された長戸本では、氏がウルトラ攻略のために整理して実践した「早押し理論」が発表された。だが、私は昔からこのことに、相当な違和感を感じていた。が、今から書くことは検証が非常に面倒だったので、今まで述べないできた。仮説の段階だが、年頭に述べておきたい。

 

・その違和感は、「早押し理論に当てはまる問題が、ウルトラクイズではまれにしか出題されない」という事実から来ていた。問題のその後の展開を予想して超早押しをするような問題(長戸本で言う「純ストレート型」以外の問題)は、割に少なかった(第13回も実はそんなに多くない)。これは、昭和50年代にあった視聴者参加型クイズ番組の全体的な特徴とも言えるが、ウルトラクイズは特に「超早押し」を嫌う問題群が多いように思う(これはいつか書く)。長戸本的な言い方をすれば「純ストレート型」が相当な割合出題されている。で、純ストレート型の対策は、とにかく経験を積むしかない、と言っている。だから、〇×対策を除き、長戸本はあまりウルトラクイズの問題に対応していないと言ってしまって差し支えないと思う。

 

・では、長戸本はホントのところ、どういう受容のされ方をしたのか。ここに「史上最強」が絡んでくる。徹底した早押し対策が必要だったのは、むしろ「史上最強のクイズ王決定戦」の方だった。おそらく、「史上最強」の早押し対策として、その内容が重宝されたのではなかったか。当時、殆どのクイズ本が絶版になった時期でもあるし。

 

・つまり、長戸本は、ウルトラクイズ対策にではなく、「史上最強」対策にこそ、用いられたのではないか、という仮説である。特に中高生にとっては他に得がたい早押しの絶好の教科書だったわけだから当然だろう、と思うでしょう? ところが、話はそう単純ではない。

 

・長戸本の内容は「史上最強」に対応するものであったと言えるのか。実は初期の「史上最強」の早押し問題も、昭和50年代のクイズ番組のテイストが色濃かった。問題作成者がそういう番組(もっと言えば、日テレで行われた日本一決定戦等)のクイズ問題を「テレビクイズの理想」としており、解答者もそういう問題になれてきた人達だったわけだから、当然と言えば当然である。そこにはもちろん、道蔦本に著されているようなクイズ的な価値観・理想像が反映されているわけである。問題集を見て分かるとおり、第1回は所謂「純ストレート」の問題が多い(もっとも、早押し問題があまりないので、分析しにくいのだが)。で、先に述べたとおり、純ストレート型には特に対策がなく、経験を積むしかない。

 
・であったのだが、回を重ねるごとに長戸本にあるようなパターンにはまった問題群が増えている(ように感じる)。私はどうも「史上最強」の方が、長戸本(に代表される、当時の早押しの常識的な感覚)に問題を寄せていったのではないか、と思えてならないのである。道蔦氏が長戸本を参考にして問題を作るとは思えないので、結果的にそう見えるだけであって、実際は解答者の方を向いて問題を作っていた、と評した方が適切だと思うが、その解答者達が専ら長戸本の方を向いていただろうから、やっぱり「史上最強」が長戸本の方に近寄っていっているのである。


・とはいえ、長戸本を読み込む必要の無いベテランが、経験値だけでペーパー・予選の早押しを通過できるような状況は、しばらく続いていた(松尾さんも寺島さんもホントに強い)。これは昭和のクイズ番組的要素を残しつつ、最新の早押し理論を組み込んだ問題作成をしていたからだ。「史上最強」があれだけの人々を熱狂させて9回も大会を開催できたのは、ひとえにこのような「全方向を向いた問題作成」によるものと思う(異論の余地はありまくりだが、まあおおざっぱに言えばね)。

 
・最後まで「史上最強」は、そういう作り方をしていたと思う。だから、たまに最新の早押し理論より昭和風がちな問題が出て、解答者が混乱している場面もある。一例を挙げよう。

 

・第9回に「江戸は八百八町、大阪は八百八橋」というフリから、長束氏が「八百八島」と答えて不正解になったシーンがある(正解は松島)。現代風早押し理論なら、絶対に「八百八島」が正解になるところだが、そうならなかった。もちろん、厳密に言えば「八百八橋」のところでは、まだ答えが確定したとは言えない。確定していないところで押すのは、リスクを背負う行為だ、という昔からの価値観がそこにはある。クイズの「変化」にはいろいろあって、その中からどういう「変化」が(恣意的に)選ばれるかは分からない。そういうリスクも込みで「早押しクイズ」なのである。現代のクイズは、そういうリスクを回避するように問題作成することが多いようだが、昔はそうでもなかった。道蔦本では「変化」という概念を用いて説明しているが、どう「変化」するかを判断するのも結局は経験によるものだということで、(昭和のプレーヤーから見て)経験の浅い長束氏が間違ったことには、それなりの必然性があったのかもしれない。

 
・「変化」という概念は、クイズ分析の際に現在はあまり用いられない。すべての構造をパターン化しようとするのは人間の知覚の方向性として自然なことだと思うが、このことがクイズを狭めてしまう点については深く思いを致しておきたい。「変化」なんだから、要はどういう問題の展開でもいいはずなのだが、「変化」のパターンを列挙し(このことは別に問題ない)、それ以外のパターンを排除しようとする動きが無意識のうちに(無意識、っつーところがポイント)常識として共有されると、クイズは広がらない。

 
・「史上最強」はこのように、現代早押し理論の先駆けと言える部分を多分に含んでいたわけだが、そうでない部分もまた多分に含んでいた。このことこそが、後に「前振りクイズ」やabc的クイズを生みだす理由となっていたわけだが、その辺のことはまた今度(と言って、続きが書かれたためしがない)。ちょっとだけ書くと、「史上最強」の問題傾向のうち、Aという傾向を純粋培養したクイズ傾向、Bという傾向を純粋培養したクイズ傾向、・・・というように傾向が細分化されていって、それぞれの傾向で大量に問題作成が進み、それぞれの問題で大会が開催されるようになっていった、っつー流れですな。その方が気持ちよくクイズできる、っつーことでしょう。 


・別にコメントする気も無かったが、写真を晒されたことだし、放送でもチラッと映ったようなので、ひとことだけ。昭和お笑い史にたとえて言うと「M-1に三球・照代が出たようなもんだった」っつーところか。

 

・「M-1」にかこつけて、様々な「ネットニュース」(という名の個人の感想か宣伝)が散見される。M-1はもはや「漫才の研究発表会」になってしまったと思えばいいんじゃないか。そういえば、ウチの代のTQC会長は、「クイズ研究会なんだから、クイズを研究すべきだ」よって「オープン大会は研究発表会であるべきだ」と主張していた。まさかM-1がそうなるとは。

たまたま私たちは、走っているのを見ないのです

・いろいろなツイートにインスパイアされて、自分の昔の文章を読み直した。私がここ20年近く、一貫して問題意識として抱いているのは「なぜクイズは広がる方向ではなく、狭まる方向にしか進まないのか」という点である。クイズは何でもありのはずなのに。

 

・クイズというのは、どうしてもそういうものなのか。それとも、今まではたまたまそういう方向にしか進んでいなかったにすぎないのか。私の中には答えはあるが、まあそれは追い追い。

 

・その話の前に、しつこいようだが「第13回ウルトラクイズ」のお話。ウルトラクイズのスタッフが、第13回はクイズマニアが集まるように仕組んだ結果、ああいう感じになったという説がよく聴かれる。

 

・その状況証拠になり得るのが、この年の後楽園〇×はクイズマニアに非常に正解しやすかった、という事実である。ただ、私はこれは「たまたま」だったのではないかと考えている。クイズ研究会を残すような番組を作るとは、どうしても考えづらいのである。私がそう考える根拠は、第12回ウルトラ第2週直前に放送された「追跡」の内容である。

 

・この放送で、福留氏はウルトラが若者ばっかりの番組になることを危惧している。大学クイズ研=画一的な若者という図式があるとすれば、そういう人を集めるかなあ?

 

・もう一つの状況証拠だが、福留氏が「クイズ研を落とすのはたやすい」かのような発言をした点について、つーことはクイズ研を落とさなかった第13回は、意図的に残したということじゃん、という図式が成り立ちうる。これについては、次のように考えている。

 

・第13回で図らずもクイズマニアが残りまくったので、その方向で何とか番組は盛り上げた。ただ、これは本来のウルトラクイズの姿ではない。この反省(?)を活かし、どうすればクイズマニアを落とせる〇×クイズになるかを、スタッフはかなり研究したのではないか。その中で「マルかバツかを判断しにくい問題」かつ「テレビで放送しておもしろい問題」=微妙なでっちあげ問題、という結論に至ったのではないか。

 

・だから、これもよく言われることだが、第14回の後楽園は問題の質が相当変わっている。3問目「制服の警察官は、事件がない時、不安を与えてしまうので、むやみに走ってはならない」。いわゆる「規則違反問題」なので、普通に考えればバツなのだが、「制服の」とか「事件がないとき」とか、やけに限定の仕方がイヤらしくなっており、結構悩ましい。しかもお得意のバツ3連発だ。他には「解毒キノコ」も「景徳鎮の便器」も強烈。で、クイズマニアの残らないウルトラクイズになったというわけ。

 

・このときの成功体験をもって「クイズマニアは落とせる」と自信をもつに至ったのではないか、というのが私の説。たった1回の成功体験で、「ウルトラクイズというのはクイズマニアを残すも落とすも自由自在」と語るわけないじゃん、とお思いのあなた。振り返ってみましょう。

 

ウルトラクイズのスタッフの回想は、少しの具体的な話を大きく膨らます傾向がある。例えばこないだの「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」でも、5万人対1人と言っていたが、5万人を相手にしたのは最終回だけでっせ。福留氏が最初からウルトラクイズをすべて仕切っていたかのような発言もあったが、本当に最初から? これらは、嘘をついていると言うより、話が自然と盛られてしまっているのであろう(いずれウルトラ関連書籍の誤りの指摘は、暇になったらやってみたいと思っている)。「クイズマニアを落とせる」も、その類ではないか。

 

・また、そもそもウルトラクイズは、クイズマニアを落とそうとも残そうともしなかった回が殆どなんですよ。第4回や第7回や第9回のように、たまたま残らなかった回もありますがね。他の回は適度に(どのくらいなら適度なのかは不明)クイズマニアがまぶされているでしょう。つーか、クイズ王のうち12人はクイズマニアなのです。だから、私は第14回でクイズマニアが残らなかったのも、たまたまだと思っている。

 

・結局、すべては「たまたま」なのである。第13回ウルトラで長戸氏が優勝し、カリスマ的人気を博したのも、第2回史上最強で辛くも西村氏が決勝に残ったことも、そもそもウルトラクイズが松尾さんから始まったことも、本来は「たまたま」であり、別の結果もあり得た。ただ、これらを歴史的な流れに位置づけると、どうしても「クイズ史の必然」だったかのように見えてくるから不思議だ。

 

・ということで、「クイズの進化は中立説で説明すべき」との立場をとる。この前提をもって、「なぜクイズは狭まってしまうのか」を説明したい。ま、追い追い。

 

・クイズと関係ないが書いておきたいので。「3時のヒロイン」は子どもを連れてルミネに行ったとき、前説をしていたので直接見ている。真ん中の福田さんの小気味の良いしゃべりに非常な好感をもった。ネタ口調が薄れていったらもっとはじけると思う。上手い女性芸人は、元々ネタ口調でも、それがだんだん自然な口調に洗練されていく。例外なく、そうなる。つまり、「さんま御殿」に出るときが勝負だということです。

一つには、物くるる友。

高校生クイズ決勝のベストは?という話が少しだけあったので、私も少しだけ。私のベストはやはり第7回かな。山形東の3人のバランスが究極に良い(暇な人は各人の解答数を数えてみよう)。終わってから東大寺のエースに話しかける福留氏のコメントがまた良い。

 

・第8回も面白いし名勝負だが、問題集を見る限り相当編集されているようで、第7回ほどの緊張感は無い・・・かな。問題もやや荒っぽい(それでも決勝にはとっておきの問題を残していたようだが)。なお、問題が良いのは第9回決勝であるということも付言しておきたい。

 

・ちなみに、高校生クイズの問題は第8回で相当荒れるのだが、第9回でかなり持ち直しており、地方大会から良問が続くようになる。スタッフロールから拝察するに、この回から大学のクイズ研が問題作成に携わっている。そして、この年は第13回ウルトラと史上最強が開始した年でもある。今からちょうど30年前のお話。

 

・やや粗雑な議論であることは承知の上だが、ちょうど30年前という時期に「クイズが職業になる時代」が到来しようとしていた、ということができないか。いや、クイズ制作を職業にしている人は既に存在していた。ただ、それは出版界に限られていたし、パズルや推理クイズなど、今言う「クイズ作家」の範疇とは相当違う業界の人に思える。放送界を中心としてクイズを生業にする可能性が、この辺から出てきたということだ。

 

・全然別の話。こういうのを見つけた。問題集は販売する、というのが文化的に優位なようだが、無料で配付するとは豪儀なことよ。何だかんだ言っても、タダで物をくれる人はいい人なのだ。寄せ集めの問題ですら商売の種になる時代に、自作クイズ問題を無料で公開することに手放しで拍手したい。

正座して見なさい

この記事を見て、第10回決勝を見たが、改めて名勝負であると思った。つーか、こっちの方が伝説になってもいいんじゃないの? 見応え抜群。あえて、褒めすぎと言いたくなるくらい褒めてみる。

 

・私が思ったこと。1つめ、クイズ問題の絶妙さ。「立正安国論」で二人とも押す現代風早押し問題があるかと思えば、「ヘミングウェイ」「テレホンカード」「マラソン」など、勘で正解させるような問題もある。「眠りを殺してしまった」「石川五右衛門」のような名台詞問題も味わい深い。緩急付けた問題の並べ方はさすが(この辺は現在の「アタック25」にも共通する)。まさに問題作り・並べ方の教科書。それにしっかり対応する2人の集中力もすさまじい。

 

・2つめ、クイズのアヤが非常に分かりやすい形で埋め込まれていること。早押しで流しているときなど経験があると思うが、クイズっつーのは勢いがあるときは連続してどんどん正解できてしまうが、その勢いが何処かで止まってしまう瞬間があるものだ。ウルトラクイズの場合、決勝戦で先に9ポイントに達すると、たいてい指が止まる。森田さんですら1回目のリーチの後に指が止まってしまっている。そういうもんなのだろう。それに抗うかのようにおふたりとも9ポイント後に確実ではない勝負に出て、おふたりとも誤答。でも結局は9ポイントから一気に勝負に出た森田さんが勝利。

 

・誤答したときも、勢いが一気に止まってしまう。これもウルトラや高校生クイズでよく見られる現象である。相手の勢いが止まったところで、どちらもたたみかけるように勝負に出る。そういう勝負のかけかたのお手本が堪能できる。クイズの大勝負を控えている人は、是非じっくり見直しましょう。

 

・てな路線で1問1問追いかけていったら、それなりに観戦記が書けるかも。面倒なんで書かないけど。

 

・3つめ、やっぱ福留氏はすごい。これは実際見てちょうだい。

 

・4つめ、独特のカメラアングルが非常に良い。これはロケ地の選定ミスからくる怪我の功名かもしれないが、また2人が良い顔するのよ。

 

・で、勝負の分かれ目が何処にあったのか、についてはなかなか結論が出ない。どちらが勝っても不思議ではない(から名勝負なわけですな)のだが、強いて言えば、(あくまでも放送上ですが)「法、法華経と鳴くのはウグイス」で無理な勝負押しをしてしまった西沢さんの方が、クイズの女神に恵まれなかったのかな・・・などと(法華経→仏法僧のパラレル、にはなかなか気付かないよね)。不確実な押しをしてしまうと、女神はさーっと逃げるのよね。それでもこのときは誤答だったからまだマシで、たまたま正解だったりすると、その後ほんっとロクなことが無い。リズムやフォームが崩れるし。そういう意味では、実は「ヘミングウェイ」を正解したことの方が敗因だったのかも。案外、前半で無理な勝負だけどたまたま正解してしまった、というのが敗着になることがあるんですよね。ま、すべては後付けに過ぎないけど。

 

・ああいうのを見ると、クイズやりたくなってきますね。もちろん、出題者としてですが。