「うるわしの」もしくは「かぐわしの」

・親知らずを抜いてから、やけに疲れやすい。更新するのも滞る日々。

 

・先日更新したボツ問題の解説に誤りがあったので、訂正しました。お詫びします。アホですね。指摘してくれたツッチー、感謝します。彼のクイズ問題もなかなか味があるので、是非ご覧頂きたい。既存のクイズに基準を置かずに作る問題からは、何というかうるわしさというか、かぐわしさというか、何とも言えない良い雰囲気が感得されるものである。

 

・「99人の壁」であるが、実は「99人未満の壁」だったということが判明(あれを「ヤラセ」と呼ぶのは日本語として違和感があるけど)。100人もいれば、どうしても前日とか当日とか急に欠席連絡をしてくるはいるわけだから、きっと欠員補充のエキストラがいるだろうな、という想像はしていた。ちなみに、私は100番に近い人達はきっと答えない人達(=エキストラ)なんじゃないの?と思っていた(根拠は省略)。

 

・で、ネット上では色々な意見が出ている。まあ、自分は出演していたときからエキストラの存在は想定していたし、正直言ってテレビなんかそんなもんでしょ、と思っているので、それほど腹立たしい気持ちは無い。ただそれは私が良い思いしかしていないからであって、やっぱりシャクに障る人の方が普通なんだろうと思う。そりゃ、アタック25の4人のうち1人はサクラですよ、ということになったら、予選を通らなかった人は納得しないだろう。

 

・やっぱり公募して出演者がいるような番組では、こういう「インチキ」はしない方が良いだろう。つーか、前も書いたが、クイズ番組はアンフェアにやろうと思えばいくらでもできてしまうタイプの番組なので、「公平にやっている」ということを証明する仕組みが無ければならないのだが、これがなかなか難しい(アンフェアをウリにする「アイアイゲーム」とかなら別だが)。

 

・歴史的に言って「テレビ=権威」だった時代が長すぎたために、「テレビのクイズ=公平なクイズ」と見なされてきてしまった。だから、「公平にやっている」という演出や証明は必要なかった。ところが、視聴者参加クイズ番組が低調であり続けた平成中期の間に、「テレビ=権威」ではなくなってしまった。そこに視聴者参加番組が復活してきて、昔のテレビ制作の感覚で当たり前のようにエキストラを入れた。そこに「公平か否か」を問う視線は入らなかった。

 

・これからの視聴者参加クイズ番組には、「公平性の確保」を演出として入れることが、どうしても必要になろう。でないと、参加しようという出場者がいなくなってしまう。いや、「視聴者参加クイズ番組」が無くなってしまう方が先かも知れない。どんな番組を作っても、何処かで足下をすくわれて、叩かれる。「視聴者参加クイズ番組」ほどリスキーな番組はない。思い通りに動いてくれない(=急に休んだりするしそんなに面白くない)一般出場者なんか、使わなくていいや、とテレビ局が再び思うかも知れない。ただテレビ番組の存続は時代が決めることだから、仕方ない。

それで自由になったのかい それで自由になれたのかよ

・やっぱ書かずにはいられないので、書きましょか。ちょっとだけ。

 

・「イチグラ」である。私の立場は、既にここに記したとおりである。で、今回の審査講評であるが、現在公表されている「日経賞」「QuizKnock賞」については、まあクイズの世界を広げる役割は果たさないと言ってよいのではないか。

 

・まあ、従来の早押しの「約束」に沿った問題作成を上手にしないと受賞できないわけで、言ってみれば小学校の読書感想文コンクールのようなもの。第2回とか、最高傑作の第3回があれば、そういう問題ばかり投稿されるようになるのだろうか。そういう問題ばかり集めてどうすんだろ。

 

・イチグラについてはすべての賞が発表されてからまた書く。まだ審査員は3人いるわけだから、なるべく違った観点から選んでほしいものであるが、果たして。もうちょっと「早押しとはこうあるべきだ」から自由になってほしい。「べきだ」とか「べからず」とかで縛る文化なんか、ろくなもんじゃない。そういうものを越えた問題を評価してほしいのう。

 

・クイズの世界は広めないが、私の「クイズ研究」には恰好のネタを提供してくれていることも事実。現今のクイズ業界で、どういう出題の仕方が良しとされているのかがよく分かるから。これについても、今年に入って詳しい分析をしつつあるから、いずれ書く。

 

・一応書いておくと、「サブスク」の問題は(類題は山ほど出まくっていると思うが)語源に頼らず、日本語も非常に自然であり、高校生(中学生だったりして)が作った問題として非常に好感が持てた(田中健一さんが作った問題、と言われたら騙されるかも)。ただ、早押しだから途中で押して「サブスク!」と答える人がいたら・・・と考えて、私なら「ビジネスモデルを何という?」で終わらせる。ここで「サブスク」と言わせないために語源(英語で「年間購読」という意味がある・・・)を足すのは気持ち悪いし、そもそも「サブスク」が分かれば充分かなと。

 

・全然関係ない話。今年の東大入試の物理第1問の最後の問題は、なんか頭脳王に似ている。簡単な式を立てて代入すれば良いだけ。見かけ倒し。

おんなじこと2回もやってんねんから(田中だよ!全員集合~)

進学校の3年担任などということをしていると、前期入試までひたすら忙しい。毎日東大の過去問(国語)を解きまくっている。ということで、前期入試の日は朝から東大近辺に出没(もちろん仕事)する予定。

 

・先週末のクイズ的なものにひとことだけ。

 

・「頭脳王」について一応確認。問題作成者と解答者の知恵比べになっていないから、見ていて全然ドキドキしない。完全に参加者が作題意図を見切ってしまっているのが視聴者にビンビン伝わってくるのだ。いや、正確に言えば、参加者が作題意図を見切れるような問題をわざわざ出題しているのである。だから参加者は「ああ、こういうことをしてほしいのね。そうすればオレは頭良く見えるのね、それが演出意図ね」と考えて、行動することを求められている。

 

・これを実現するために、一見難しそうに見えて、最短距離に気付けばかなりのスピードで解けるような問題(もちろん、暗算力とか記憶力とかが並外れている人なら、という条件が付くが)とか、過去問の簡単な分析により事前に対策できるクイズ問題ばかりを出題しているわけですな。

 

・別に参加者を批判したいのではない。優勝すれば100万円なんだから、参加者はそうやって対策でも何でもして、勝ちに行ったら良いと思う。なお、クイズの優勝賞金に100万円がふさわしいか、という議論が散見されるが、私としては「100万円くらいがちょうどいいんじゃないか」という立場である。クイズで1000万円とか1億円は、ちょっともらいづらい。

 

閑話休題。私は別に「頭脳王はヤラセだ」と結論づけたいのではない。そもそもクイズ番組に限らず、テレビ番組全般には、昔からこういう構造が多かれ少なかれ埋め込まれ得るものなのだ。ただ、それが度を超えて露骨に行われてしまうと、「クイズ番組」延いては「テレビ番組」というものに対する信頼感が失われるのでないか、と危惧する。同じ手を何度も使うのは、どうなんだろうね。

 

・ジグソーパズルの問題なんかは、過去にも出た訳だから、もう少し悩ませるような作りをしたらよろしいのではないか。例えば、凹と凸が2個ずつのピースが欠損しているようにするとかさ。そうしないで凹と凸の配置が一意に決まる(=凹凸を数えるだけで書けてしまう)ものを前にも出したし、今回も出した。こういう出題の仕方ができてしまう作問者の発想が全く理解できない。

 

・「99人の壁」。番組としては成立しているんだから、全然いいのです。そりゃ、秋田から来た普通のおっさんが100万円とったり、ドラマ好きなおねえさまがワンシーンを演じたり、そういうのを見たい私からすれば、物足りない感じはしますが、そんな一部の視聴者は無視して良いのです。

 

・もう一度書きますが、あの頃の「99人の壁」はもう戻ってこないでしょう(鶴くんには申し訳ないが)。たぶん、スペシャルですらあの形式ではもうやらないのではないか(全員が同じジャンルとかならあり得るが)。100ジャンルの問題を用意する番組的な体力は、もう無いのでしょう。そんな気がしますな。

 

・それは元々、無理も無いことなのである。有り体に言って、レギュラー開始当初、番組作りに手間を掛けすぎた。業界注目度も高く、クイズ問題にもクオリティが求められるし、出場者にも個性が求められる。たいして面白くもない秋田のおっさん(しつこい)より、キャッチーな小学生とかマニア丸出しの人とかの方がいいよね。

 

・どうも私は難読漢字系の問題が好きになれないのだが、世の中漢字問題好きなのね。こないだたまたま目にした「潜在能力テスト」で、漢字の読み方しりとりをしているのを見て愕然とした。「雑学王」のパクリじゃん。もっとも、「漢字の読み方しりとり」の何処が雑学王なのかも分からないけど、ってそんな話はここですでに書いていた。

 

・問題についてひとつだけ。難読名字については、怪しいものも含まれていたような気が。「全国〇〇人」ってのも怪しい。家の森岡浩本(3冊)や丹羽本や佐久間本にも、全く掲載の無い名字がいくつか見られた。基本的に、「自分で確認した名字しか発表しない」森岡浩さんに監修してもらうのが安全だと思う。

 

・ブロッカーの学校の先生たちも、校長から非常勤講師まで硬軟取り混ぜていたが、クイズ屋さんもたくさんいたのう。アタックで対戦した方とか、オープンで対戦した人とか。

こんな天気は僕には似合わないんだと 肩をすぼめて歩く時

・なんか昨日から今日未明にかけて、やたらアクセス数が多かったようだ。私の考えなんか別に読まなくてもよいが、そこから私のクイズ問題にアクセスした人が多くなったとしたら、これに勝る喜びはない。

 

・私のHPやブログの内容としては、あくまでもクイズ問題がメインであり、私のクイズ思想はオマケにすぎない。どんだけ偉そうなことを言っても、実践をしてなければ意味ないもんね。秋元さんは問題を褒めてくれたが、たった30問しかないから、万が一良問が含まれていてもそう大したことではないわけで。

 

・昨日のブログの取り上げられ方について、ひとつだけ。クイズに派閥というものがあったとしても、私は常に「無派閥」であり続けると思う(これはポリシーと言うより、性格上の問題である)。サークルには入っているが、ウチのサークルは思想的なつながりゼロだし。つまり何が言いたいかというと、私は誰の味方にもならない、ということですね。相変わらず、陰日向にいて、皮肉とか憎まれ口とか叩くこととなるでしょう。やっぱ1日のアクセス数は30以内でとどめておきたいところ。

 

・やっぱもうひとつだけ。生徒のやりたいようなクイズを尊重するのは教員として良いことだ、という感じの評価を受けた。ということはそうでない教員というのが世の中にいるということかしら? 基本的にクイズと教育を絡めるのはあまり好きでは無いが、「クイズ問題を自分で作問し、出題すること」には多大な教育的効果があると考えている。同じような発想から、私が担任するクラスでは、生徒が書いた学級日誌の文章を、すべて印刷して配付している。発表を前提とした創作こそが、生徒の力を飛躍的に伸ばす。これは、国語教師としての経験から、自信を持って言える。と、たまには教員らしいことを。

日経エンタテインメント!

・問題をアップしました。30問だけですが。

 

・AQLが日本経済新聞社と共催になったそうだ。こないだの東北大会には、私の勤務校のクイズ同好会も参加した(本人達の希望ですよ、あくまでも)のだが、「この大会がどういう大会か」「加盟するとは、どういうことか」を学校で説明するのが大変だった。新聞社が共催ということになれば、非常に説明しやすい。

 

・AQLというのは、要はサークルごとの早押しリーグ。この「早押し」に限定しているところに、はじめ非常な違和感を感じていた。結局「早押し」に特化することで、例えばabc的なクイズばかりが行われてしまうのではないか、と懸念されたからである。そこに、文化としてのクイズの幅の広がりや許容性の入り込む余地は、ないような気がしてしまっていた。

 

・今は、全く別のとらえ方をしている。このリーグのポイントは、「問題を持ち寄る」という点にある。だから、同じ大会の中で、毛色の違う様々問題群が出題されうる。ここに「文化としてのクイズの広がり」の可能性が出てくる要素がある。つまり、各サークルの出し問題の多様性がカギなのだ。今後数回の実施の中で、「いろいろな種類の問題が楽しめる大会だから嬉しい」という声が高まれば、「早押し問題でも充分多様にできるじゃん」という考え方が広まるかもしれない(まあ、多様にできるに決まってるんだけど)。みんなが競技クイズっぽい問題とか、abc的問題とかで揃っちゃったらどうしようもないのだが。

 

・そのためにも、「日経1問グランプリ」は非常に重要である。いや、どのサークルの問題が優れているかとか、そういうことはどうでもいいのだ。ここで出てくるはずの「審査講評」が重要なのだ。クイズの世界を広げてくれるのに寄与する意見が出てくることを切に祈っている。もちろん、そうでなければ我々がサイト上で代わりに意見を述べましょ。少なくとも、早押し理論から離れたところで意見を述べてほしいものであるが、果たして。審査員の方々、私は面識がないから、そういうことを託せる審査員なのかどうかわかりまへん。

 

・「99人の壁」。東大出身でも教員でもあるのに、全然お呼びがかからない。私に何か問題があるのだろうか。例えば、子どもでも容赦せずえげつなくブロックしそうなヤツだと思われてるとか。

オレだけの秘密の戦略

・で、お前は結局何が言いたいんだ、と思っている人が多いだろうから、前回の続き。

 

・前回述べたように、「史上最強のクイズ王決定戦」は、昭和クイズ番組ブームと、当時の最新早押し理論を同時に達成することで、すべての世代のクイズプレーヤーに対する配慮を成し得たクイズ番組であった。で、そこには問題監修の道蔦氏のクイズ的価値観や美意識が、見事に結実していた。

 

・私は、この道蔦氏のクイズ的価値観や美意識こそが、平成クイズ史のすべての現象を読み解くカギになっていると考えている。平成クイズ史においては、道蔦氏が考えて(主に「史上最強」で)実行してきたことを、部分部分拾い出してきて、それぞれを発展させてきた現象だけが「主流」と見なされてきた。「史上最強」で行われなかったことは、どうあっても「主流」にはなれない。具体的にどういう動きがあったかは別稿に譲るが、そう仮定すると、様々なことがすっきりと理解できてしまう。例えば「問題の形式」「文体」「出題ジャンル」「問題の読み方」などなど。

 

・ひとつだけ例を挙げておくと、「道蔦本」では昭和60年の時点で、既に平成中期にクイズ界を席巻した(しすぎた)「前振り長文クイズ」について触れている部分がある。長文のストレート問題として、「連合国側の「ノルマンジー上陸作戦」を指揮し、のちに第三四代アメリカ大統領になった「アイク」の名で親しまれた政治家は誰でしょう?」という例題を挙げ、「より早いポイントで押せるようになるには、より深い知識を持っていなければならない」と説明している。「史上最強」にも当然反映されているこの要素を、平成6年くらいから10年以上深掘りしまくって追い続けた人達がいて、それがいかにも「正統的なクイズだ」と主張されていたという歴史的事実は、確実に存在している。

 

・私は、道蔦氏と面識も無いし、別に功績を称揚せんがためにこうした文章をものしている訳ではない。もちろん、クイズの裾野を広げた功績は非常に大きいと思う(褒めすぎか?)。

 

・ただ、わざわざこのような文章を記したのは、現在過去未来すべてにおけるクイズ分析の際に、氏の行跡を一種の「物差し」として使えると思ったからである。早い話、分析にはスタート地点があった方が楽なわけで、そういう存在を見つけたから紹介したかったということ。ま、結局そういう分析をするのもオレだけか。

 

・書いた理由はもう一つある。「史上最強」の客観的な分析ができるのは、多分私だけじゃないかという気がしたから。おっさんのくせに、TBSの放送されていない地域にいて、「史上最強」を全く見ずに青春時代を過ごしたからね(本は読んだけど)。

 

・M-1で言っていたが、漫才の歴史はダウンタウン以前と以後で分かれるそうだ。それはいつも私が言うように、ダウンタウンはそれまでのお笑いをすべて踏まえた上で、新しいことを混ぜ込み、さらに圧倒的な支持を受けたからだ。クイズで言えば、それが道蔦氏だ、ということですね。ちなみに私は、「当たってくだけろ」も殆ど見たことありまへん。

 

・一応この話にかこつけて付記しておく。一番分かりやすいのは第9回アナポリスで、島畑さんが勝ち抜ける直前3問。3問連続「では」のパラレルなのだ。で、「では、カンパリといったら」「では、ほらふきのつく嘘は何色」の2問については一拍置くが、「ではタレント高見恭子の父親は」では続けて一気に読んでいる。まあ、その都度自然な読み方をアナウンサー的感覚で選んでいるのでしょう。少なくとも、クイズのポイントという観点で読み分けている訳ではない。私は、問題読みというものはそれで良いと思う。