なつかしい野原で遊んでる夢を見ました

・5月3日、オンラインクイズを行った。そのときの問題はこちら

 

・オンラインクイズは今まで極力行わないようにしてきた。一度始めると、生活の一部となってしまいそうな気がしたからである。私にとってのクイズは生活の句読点でしかない。今回のように、たまにしか会わない知り合いが集まってクイズを行うことの、代替として行うという位置づけであれば、アリかな、と。TQCの方々とクイズをすると、すぐに昔に戻る。おっさん5人が無邪気に遊んでいる。ハタからは見ない方が良いかも。

 

・秋元さんも書いておられるとおり、オンライン早押しは(すべてのシステムがそうなのか分からないが)押してからボタン音が鳴るまで少々のタイムラグがあった。となると、(私はできなかったが)「読ませ押し」の上をいく「読ませすぎ押し」という芸当も可能になるかもしれない。

 

・そもそも私はあまり「読ませ押し」というテクニックを前提としてクイズが構築されることを好まない。オンライン早押しのように、「クイズ感覚」というより「ゲーム感覚」(何が違うんだ)で対処するのがふさわしいクイズは、こういう機会でもなければやらないかもしれない。これは好き嫌いだからしかたがない。こう言うクイズを好む人を批判しているわけではないのであしからず。

 

・にしても、秋元さんの企画とはいつも基本的に相性が良い。普段のHPの問題は全然正解できてないのに不思議だ。たぶん、分かる問題が何問に1問かあって、それが単独正解になることが多いからだろう。もちろん、早押しじゃないのも理由の一つ。私は自分に甘いので、たかだかミニクイズに勝ったくらいのことで「おれ、まだいけるな」と勘違いすることにしている。間違ったり思い出せなくて悔しい問題もたくさんあったが、それも含めてクイズという遊びの楽しみだからね。

 

・鶴君の大量の問題群も久しぶりに堪能。ようやっと彼が東大風(not東大)と呼ばれていた時代の「何を見てもクイズ問題になる状態(=クイズ的トランス状態)」が戻ってきたようでなにより。でもまあ、あそこまでオリジナルであることにこだわらなくてもいいのでは? 1問1問がオリジナルであることより、問題群としてオリジナルさが出ていればいいんじゃないの? 

 

・私もかつては1問たりとも他の人と被りたくない、と考えたことがある。ただ、最近は世の中に出回っている問題数が増えすぎてしまい、全く誰も出題したことのない問題を作ろうとしても厳しいわけで。あまりストイックになると、クイズって苦しくないですかね(これは鶴君だけではなく、世間一般に伝えたい)。

サファイアを目に埋め込んでる方と埋め込んでない方(明確な対比シリーズその4)

・「プロフェッショナル」のクイズ回を視聴。普通は1人を取り上げる番組だから、2人を取り上げるのは割と異例なわけだが、この2人の対比が非常に明確であり、お互いへの感情のやりとりが分かりやすいから、そこにドラマが見えてくる。面白く見た。

 

・クイズに限らず、アイディアを出して形にすることを主たる仕事にする人達の苦労は、並大抵のものではないだろう。本当に、何にも出てこなくなる瞬間がある。「マイエンジェル」問題作成直後に携わった「アブノーマルチェック」の質問を考えるバイトが、今までで一番の地獄だった。一生懸命考えれば出てくる、と言うものでもないから。若き鬼才・田平宏一がほとんど一人で考えたぶっとび(死語)企画であり、携われたのが本当に幸運(「マイエンジェル」とは相当別の意味で)だったのだが、面白い企画ほど、ネタ出しに苦労する。同じパターンでネタを量産しなければいけないし。

 

・謎解きだけでなくキャスター的な仕事をしたり、クイズ動画だけでなく教育っぽいアイテムの宣伝をしたり、肉体改造したり、多角的に事業展開する人がいるのは当然の流れだと思う。結局は「自分」を資本にする職業だしね。

 

・そんな中にあって、あえてテレビを主戦場とする苦しいクイズ作家業を続けるお二方には頭が下がる。クイズが好きだ、というだけでは続かない。ただ、同じオッサンの目から見て、ちょっと無理して走りすぎているようにも感じる。それにしても、あの二人の後継者っているのかな?

 

・クイズを論じる試みは、まさに多岐亡羊の極み。ただ「QUIZ JAPAN」の次の発刊の前に発表しないと、内容がかぶりそうで困った。

Over endless plains, stumbling in cracked earth

・クイズというのは、世の中の雑多で統一しにくい事柄を相手にして、その都度問題を作成していくものである、と私は理解していた。統一しにくい中でも統一できたらすればいいし、しにくかったら無理してしなくてもいーじゃん、というのが私の立場である。

 

・「日本人ノーベル賞受賞者」が「日本国籍を有して日本にずっと暮らしている人」だけだった時代は、「日本人として〇人目のノーベル賞受賞者」とかいう表現を使ったクイズ問題が成立しうるが、アメリカに帰化した物理学者がノーベル賞を受賞した時点で、この表現は使いにくくなる。だったら、使わなければいーじゃん、というだけの話。クイズに都合のよい表現が使えなくなったからと言って、ことさら悲しむ必要は無い。新しいのを考えれば良い。

 

・それを、日本人ノーベル賞受賞者関連の問題は、今までせっかく出題しまくってベタ問題になったし、みんなで一生懸命覚えまくった苦労を無駄にしたくないし、などという程度の理由で無理矢理何とか出題しようとするのは、本末転倒ではないか。雑多な事実からピックアップして問題を作るのが本来の姿であって、今まで出題されていた問題がこれからも出題し続けられるようにすることがクイズ作成の目的であるはずがない。

 

・だから、この記事を読んだとき、ややびっくりした。「その荒れたクイズの知識の土地を整地するのが、めちゃくちゃ大変そうです。これはクイズ愛好家たちが一丸となって取り組まなければいけない課題だと思います」とある。クイズの知識が荒れたなら、荒れたなりに好き勝手問題を出題していけば良いのであって、わざわざ整地する必要は無い。荒れたことを嘆く必要も無い。別にコロナ禍でクイズを作れなくなったわけではない。おそらくここで言う「整地」とは、「これは今後も出題されうる」とか、「知識をこのような形で整理して覚えるとクイズに勝てる」とか、「ここで押すのが最適解だ」とか、そういう形で知識を整理し共有していくことを指していると思われる。現在のクイズのメインストリームは、そのように「クイズ愛好家たちが一丸となって」クイズの知識を整理して共有してできあがっているのであろう。

 

・クイズの「よく出る問題」の知識を、将棋の定跡と同じように考えるのなら、それでもよいかもしれない。ただ「何でもあり」も、クイズの醍醐味である。せっかく「定跡通りいかないような世界を作り得る」という可能性が大きく広がっているクイズの世界。整地しないまま果てしない荒野をよろめきながら進む人が、もっと増えてもいい。それをしないとどんどんクイズは先細りする伝統芸能のようになってしまうかもしれない。

あそこに行きたいか!(DT漫才クイズより)

・「頭脳王」視聴。あまりコメントはないが、ただひたすらアナウンサーがうるさかった。オセロについて分析している人がいてちょっとだけ話題になっていたが、6年ちょっと前にこんな指摘をしている人もいる。いずれ、頭脳を競うなら極力フェアな条件で行う体(てい)でやらないとまずいんじゃないの? 「99人未満の壁」よりよっぽど悪質では?

 

・「ノーナレ」視聴。「人生最高の一問」を、番組が成立するように上手に作った腕はお見事。部外者である私が偉そうに言うのも何だが、日高さんの問題には「じょうずな問題」「きれいな問題」、矢野さんの問題には「新しい問題」「目を引く問題」という感想を持っている。「プロフェッショナル」では、その辺の対比と交叉が丹念に描かれると面白いのだが。「99人の壁」で良い思いをさせていただいた私としては、お二人とも(お一人は面識がないが)体に気をつけられますことを切に願うところである。

 

・「早押しはいらないのではないか」という提起は、もっと深掘りされて良い。私にも思うところがあるが、諸事情で今は書かない。

 

・だらだら長生きするのを目標とする私には、「クイズは生きがい」とか「一生懸命やる」とか、そういうクイズに対するスタンスは意想外のものである。別に舐めているわけではないのだが、何処かで「たかだかクイズじゃないか」とタカをくくっている自分に気付く瞬間がある。一度マジでクイズをすると変わるのだろうか。ゆっくり準備している「ひとりユリイカ」が終わったら、マジでクイズの勉強でもしようかしら。なんか今の自分のスタンスに飽きてきてるし。

電波少年に毛が生えた 最後の聖戦

BPO委員会決定は、クイズ番組制作の裏側が見えて面白い。一方、私が「99人の壁」に出場するなどと全く考えていなかった頃に書いた文章がこちら

 

・もう「99秒の壁」だけで番組にしたらいいのでは? でもそれだと今までのよくある対決系番組と何ら変わらないか。

 

・「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」。「海外ロケ番組」だけで1時間30分は無理ですって。権利関係もメチャメチャ面倒そうだし。電波少年ならもっと引っ張れたかも・・・と言っても、別に海外ロケがメインの番組じゃないしなー。つーか、稲川素子事務所は「海外ロケ」なのか? ウルトラクイズを取り上げる必要も無かった気がする。だったら「チョモランマがそこにある」の方が絶対に良い。あの番組の方が福留氏も話しやすかったのではないか? 

 

・テレビ番組は、番組内容にふさわしい「時間枠」が与えられるわけではない。何とか放送時間をもたせなければならない、そんな悲哀ばかり最近感じる。だから、かったるい番組が多いような気がしている(あくまで主観)。間が持てないのである。「ガキ」しかり。新型コロナの状況下、間延びした番組多くないですか? YouTube人気の影響かな? とにかくひっぱりすぎ。引っ張りすぎと言えば、、電波少年の晩年もなかなかだった。

 

・全くどうでも良いのだが、稲川素子事務所HPを初めて見た。「こんばんは、森シンジンです」でおなじみのマジド=シャイエステはいないのね。

Come on! 情熱や美談なんて ロクでもないとアナタは言う

・元々、クイズの会合に行く回数も少なく、遠征も行わない、テレビのクイズもそんなに熱心に見ない、そんなちょっぴりクイズ好きな私にとって、昨年1年間はそれほど大きなクイズ上の変化はなかった。新作問題の発表が少なかったのは、現在「ささきしげきの一人ユリイカ」(by秋元さん)のことでクイズ的な時間を使っているから。

 

・一方「昭和お笑い史の人」としては、続く訃報に心を痛め、古書収集もままならず、無観客番組は増え、劇場にも一度も行けず、いいことが全然なかった。強いて言えば『明石家さんまヒストリー』刊行開始がビッグニュース。笑福亭松之助師匠との交流も感動的だが、内弟子修行中に上京したエピソードもまた感動的である。感動的と言えば、小松政夫師は生前「植木等という師匠はどれだけ人間的に素晴らしいか」を語ることを使命としていたフシがあるが、その小松の親分さんが亡くなって、「小松政夫という喜劇人がどれだけ人格者か」というエピソードが続々登場したことは、たいへん喜ばしいことだったと思う。

 

・もっとも、お笑い芸人の感動エピソードがネットニュースで消費される状況を喜んでいるわけではない。ネットニュースと言えば、「これは漫才かどうか」という論争に、私もついうっかり参加してしまったが、「あんなの漫才じゃない」と行っていた匿名子達は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。藤本義一的な人が「あんなのは漫才じゃない。だいたい漫才というのは云々」とか言って論戦が起きれば面白いのに。往々にして「あんなの〇〇じゃない」などという吐き捨てたような口ぶりは、よほど粗雑な思考に自らを慣らしていないと出てこない。そういえば「あんなのクイズじゃない」って言ってた人達は何処へ行ったのでしょうかね。ああいう「全否定の言辞」、(私が言われたわけではないが)言われた人は一生覚えているものですよね。

 

・ということで、今年の目標は「すばらしい芸人を亡くなる前に褒めちぎる」。クイズ的には「一人ユリイカ」を完成させた後、コロナ後のクイズブームで活躍するためにクイズの勉強をしまくる・・・わけがない。まあ、諸事情で最近「クイズグランプリ」全5巻を流し読みしているけど、覚える気が無いので頭には入ってこない。なので、目標としては「田中さんの本を全部ちゃんと読む」くらいにしておきたい。言い忘れておりましたが『QuizistA』07・08は冊子版をちゃんと手に入れております。ファンとして当然でしょう。

少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。

・クイズではなく、お笑いのことを少々。

 

マヂカルラブリー優勝。「これは漫才かどうか」という議論が起こっているようだが、そういう議論はテツandトモとかプラン9で終わっていると思っていました。

 

・「正統派かどうか」という議論もあるようだ。「マヂカルラブリーは正統派ではない」と結論づけたところで何の意味もないと思うが、ひとつだけ言っておく。では「霜降り明星」はあなたの言う「正統派」でしたか? 

 

・ここでいう「正統派」とは、会話のような掛け合いを主としたものを言うのだろうが、会話が成立していないスタイルの漫才もしっかりと確立されている。ツッコミを無視してただひたすらボケ続けるのに対し、合いの手のようにツッコミを入れていく漫才は、M-1ならチュートリアル霜降り明星が優勝している。フットボールアワーのSMタクシーもそれに近い。最近だと、ウーマンラッシュアワーもそうだ。

 

・余計なことを付け加えると、チュートリアルの漫才を優勝する前年と優勝した年で比べると、明らかに前年の方が会話が成立している。福田さんの言葉が多いのだ。彼らは会話を成立させない方向に改良する戦略をとったことで、優勝をものにしたのである。こういうスタイルの漫才が生まれてくるのは、漫才の進化としか言いようがない。

 

・時を戻そう。「うなずきトリオ」という言葉があるが、ツービートもB&B紳助竜介も、基本的には会話というスタイルを崩していない。それまでの時代の漫才の構造を崩さないまま、ボケの言葉を高速にして増やし笑いを細かく刻むという、当時の最先端の漫才(もっと言えば、M-1でも勝ちパターンといえる漫才)を同時的に生みだした。このスタイルは非常に応用しやすい万能パターンなのだが、当時の漫才師で追随する人はほとんどいなかった。現在ではこういう漫才を「正統派」と考えている人も多いだろうが、当時は「これはオーソドックスな漫才ではない」と評価されていたのである。

 

・翻ってマヂカルラブリーも、1人がボケ続けるのに対して言葉でツッコむ、という構造は何ら変わっていない。ただ、ボケが一切喋らず動きのみである、という点がやや斬新なのだ。霜降り明星をさらに進めた形である。従来の漫才のスタイルを少し変えることで、漫才を進化させる動きが、M-1によって一気に加速され、それは今も続いている。今年もまた漫才は進化したんだなあ、と感慨を持って迎えたい。

 

・私は以前からおいでやす小田さんを応援している人間なので、今回の結果は非常に満足。惜しくも2位、というのが、らしくて良いよね。